過労死問題について知る

HOME > 過労死問題について知る > 勝利事例・取り組み等の紹介 > パパ、もう少し頑張ってみます~家族の会が元気をくれた~ 報知新聞塚野過労死事件請...

パパ、もう少し頑張ってみます~家族の会が元気をくれた~ 報知新聞塚野過労死事件請求人 塚野信子(民主法律272号・2008年2月)

報知新聞塚野過労死事件請求人 塚野信子

 夫は平成4年報知新聞大阪本社に入社後、すぐに事業部に配属になりました。仕事はもっぱら会社が主催・後援する少年野球、ゴルフ、テニス、釣りなどのスポーツ関連のイベントを担当するものでした。イベントは土日祝に開催される事が多く、普段から休日の少ない生活でした。
 そんな中、平成15年10月に同僚の方が退職したにもかかわらず、人員の補充がなく、残りの事業部員4名で抜けた穴を埋めることになったのです。次長を除けば、11年のキャリアの夫と、夫の先輩の二人ですが、社歴は上であっても、それぞれ事業部暦は1年と2年半でした。
 各々イベントは一年に一回ずつ、それをまた翌年以降も継続していくというスタイルが多いために一年通して事業部で勤務してみて、やっとイベントの概要やサイクルが判るもので、この人員構成の下では周囲も認めるとおり、夫への依存度は自然と高くなったのです。また本人の性格上、頼まれれば決して嫌と言えない責任感の大変強い人間でしたので、相当の負担が肩にのしかかってきていたのは明らかです。それまで、まれに風邪を引いたり、発熱がある程度で、健康面では特に心配するような点はありませんでした。しかし、同僚が退職してからの夫には心身の疲労がたまっていることは私にはよく分りました。「疲れているのなら少しでも早く寝れば」とすすめても、動くのもだるそうに「頭の中が興奮してすぐには寝付けない」と返答し、少しゴロゴロした後に、のろのろと床に就くという有様でした。倒れる1ヶ月ほど前には、買い換えたばかりの携帯電話や車の鍵を失くしたり、いつも持って出る家の鍵を忘れていったりなど、明らかに変調をきたしていました。
 そんな中、同僚もハードだったと認める一週間の業務の後、徳島での「キス釣り大会」のイベントに出張した夫は大会前日の夕食の席で頭痛を訴えて、翌日の大会当日の朝、海岸で倒れました。クモ膜下出血でした。一報を受け、部長の車に乗せられた私は途中、労務厚生部長が合流された時には「これはただごとではない」と身体が震えました。
 結局、成すすべもなく3週間後現地の病院で亡くなりました。まだ、35歳の若さでした。私は絶対に働きすぎだ、過労だ、過労死に間違いないと直感し、夫の死因を確定することが後に証拠になるかも知れないと考え、反対する両親を説得して、夫を解剖してもらいました。激症型のクモ膜下出血だったと後で判りました。入院中、私は会社に労災申請の意思を伝えたところ「何時言われてもいいように用紙は取り寄せてある」と話され、現地で受け取りました。以前、夫は出張中にトイレで倒れていた同僚を発見したことがあります。そのケースではどうなったのか、夫の友人に尋ねたところ、報知労組の方から連絡を頂き、以降支援を頂くようになりました。
 葬儀を済ませ、報知労組の方々に連れられ、あべの総合法律事務所で、岩城弁護士、佐藤弁護士にお世話になることになりました。葬儀後、すぐに弁護士さんに引き合わせていただけたことは心強く、幸運なことでした。すぐに弁護団が結成され、組合の方でも支援する会を立ち上げて頂きました。
 約一年をかけて資料を作成し、一回忌にあたる平成17年6月28日に天満労働基準監督署に労災申請しました。それと同時に労災認定を求める署名活動をにも取り組み、二万筆を目標としました。二万筆は本当に出来るのか不安でいっぱいでしたが、各労組、団体、夫の仕事関係、とりわけボーイズリーグ関係者、地元の友人、知人、たくさんの方が協力してくださいました。「うちの息子と同じくらいの年や」「うちの主人も仕事きついねん」「コピーして知り合いにも配るわ」「会社の受付に置いてあげる」「町内会の集まりにおいで、配らしてあげる」と、声を掛けて頂きました。特に、同世代の息子や娘、配偶者を持つ人は他人事ではないと真剣なまなざしで取り組んでくださり、署名の輪は次第に大きくなって行きました。署名は順次、新聞労連の伊藤氏によって製本され、何度か天満労基署へ提出しました。署名の到達は49、345筆という驚異の数となりました。
 しかし、支援の気持ちを労働基準監督署は踏みにじりました。申請から9ヶ月後の平成18年3月末、業務外の通知が来たのです。それまで張り詰めていたものが、ガラガラと崩れ、口では「当然、審査請求します」と宣言したものの、心の中では迷っていました。何のために夫の労災を認めてもらおうと、私も周囲も努力してきたのだろう?誰のために?又、先の見えない暗いトンネルの入口で私は呆然と立ち尽くしていました。
 労働基準監督署へ不支給の理由を聞きに行った帰り、岩城先生が「塚野さん、家族の会に入ったら」と勧めてくださいました。今思えば、先生は最適の時期だと判断されたのでしょう。(実はもっと以前にもお話は伺ってはいたのですが、何か新しいことを始めることに抵抗があり、子供も幼かったので会合などにも出られないだろうという思いから、躊躇していたのです)
 私は躊躇なく大阪過労死を考える家族の会に加入しました。代表の新田さんは「つらかったんやねえ、みんなそうよ。みんなで頑張ろうね」と、このやさしい声はボロボロになった私の心に沁みていきました。「独りじゃない。ここに来れば仲間がいる。気持ちを分ってくれる人がいる」まさに家族の会はそういう場でした。葬儀以来、決して人前では泣かないと決めていた私ですが、初めて泣いてもいい、泣き言や愚痴を言ってもいい、癒しの場を得たのです。
 家族の会を通じて、全国のたくさんの方と知り合いになり、労災の枠を越え、家族の話、子供の話、仕事の話・・・、勝利された方には色々ノウハウを教わり、勇気づけられたり、叱咤激励されました。「お願いですから、労災を認めてくれませんか」という姿勢であった私には「認められて当然のケース」「もっと怒ってええねん」という言葉はとても新鮮に響きました。
 そして、家族の会で常に気配り、目配りをして気に掛けてくださったのが、故北村仁さんでした。弱気になる私にたえず「あきらめたらあかん」と言ってくださり、とかく後ろ向きになる私には今も勇気を与えてくれる言葉となっています。
 夫がその命を奪われてから、3年半。当時二人の子供は5歳と1歳11ヶ月でした。倒れてから亡くなるまでの三週間、子供達は私の実家に預けていました。長女に「お父さんは死んでしまったけど、お母さんがいるから大丈夫やで」と伝えると、不安そうな表情で「お母さんは死んだりせぇへんの?」と問われ、胸が詰まりました。夫と完成を待ち望んでいた家が建ち、母子3人の新しい生活がスタートしました。
 しかし、夫のいない不安、寂しさ、独りで子供を育てることへの責任感、張りつめる緊張感、夫も子供たちも、こんなはずじゃあなかったという沸きあがってくる怒り。様々な負の感情が私の心の中に渦巻き、支配するようになったのです。だめだ、このままでは心の健康を保っていく自信が無い。そう危機感を抱いた私は夫との思い出をたどったり、夫のことを語ったり、考えることも止めました。部屋から写真すらしまって、現実を直視できない日々が続きました。夫には酷いことをしましたが、そうすることしか出来ませんでした。子供との日常生活を大切に、ただ淡々と日々を生活していく、労災の事も思考から排除して。
 しかし、私のつらい時に一番近くで支えになってくれたのは、無邪気な二人の子供達でした。長女は現在小学校3年生になり、テレビや新聞を見ては「トヨタの内野さん、認められてよかったなあ」「お母さん、厚生労働省行って何するの?」などと質問してきます。あまり父親との思い出のないこの子供達に、胸を張って父親の頑張った姿を教えてやりたい。そして、夫が精一杯生きた証として労災を認めてもらいたい。心からそう願うようになりました。
 現在は労働局にて審査待ちという状況です。請求からすでに一年半。北村さんの「あきらめたらあかん」を思い出しながら、もう少し頑張って行こうと思っています。弁護団の先生方、労組をはじめと刷る支援の会の方々、家族の会の方々、今後とも力強いご支援をどうぞ宜しくお願いします。

(民主法律272号・2008年2月)

2008/02/01