過労死問題について知る

HOME > 過労死問題について知る > 勝利事例・取り組み等の紹介 > 福岡の地で「孤独にしない」と支えてくれた金谷支援の会 九州カネライト金谷過労自殺...

福岡の地で「孤独にしない」と支えてくれた金谷支援の会 九州カネライト金谷過労自殺裁判原告 金谷一美(民主法律272号・2008年2月)

九州カネライト金谷過労自殺裁判原告 金谷一美

1 昨年2007年5月7日、福岡高裁行政裁判で一審福岡地裁に続き「全面勝利」を勝ち取り、2週間後行政は上告を断念し「労災認定確定」。その秋に、会社とも示談し会社とは民事裁判することなく和解が成立し、すべて解決することが出来ました。
 ここにご報告することが出来ますことは、多くの方々のご支援のお陰様と感謝致しています。
 思えば、夫が過労自殺し認定を求め7年5ヶ月。すべて解決まで8年間の闘いでした。

2 1999年8月にカネカ本社高砂工場から突然福岡の子会社に出向し単身赴任、そのわずか4ヶ月後12月15日に出向先の職場工場内で自殺。
 その日は娘の19歳の誕生日でした。今でもその事は娘にとっても大きな心の傷となっています。「私の誕生日になんで?お父さんはそんな弱い人じゃない」と娘は叫び、私も信じられず、「夫がなぜ?夫の身に何が?」ただそれを知りたかった。「このままでは、夫の死が闇に葬られてしまう。このままでは納得できない。夫の死を受け入れることができない。なんとか調べてほしい」との思いで、2ヶ月後の2000年2月8日に労災申請をしました。

3 労災申請したものの、どう対処して行けばいいのか不安の中、3月30日岡山倉敷の川崎製鉄過労自殺の労災認定をテレビで知り、「藁をも掴む思い」でその日のうちに当事者の渡辺さんに会いに倉敷に行きました。その後大阪家族の会に入会し同じ思いの遺族の人との出会い、互いを支え合い、励まされ、これからどうして行けばいいか、道を探り、「労災認定を取る」そのことにすべてを賭けました。弁護士の先生にも恵まれました。でも2年後の2001年9月11日、アメリカでテロがあった日に「業務外」となり翌2002年1月17日に福岡労働局に審査請求をしました。

4 しかし、当時、姫路の私が見知らぬ土地の福岡で闘わなければならず、不安と孤独で途方に暮れていました。そんな時、6月8日「命と健康を守る全国センター西日本セミナー」が四国徳島であり、福岡市職労委員長の日下部さんとの出会いを頂けました。「なんとか力になって欲しい」とすがる思いでした。日下部さんは当時、市の職員であった加茂さんの過労死裁判の支援をされていました。日下部さんと加茂さんは、必死だった私の話を聞いて下さり、単身赴任し福岡で被災したのなら「ほっとかれめーもん」(「ほってはおけない」の意味)、「なんとか考えてみましょう」と言って下さいました。
 2002年10月19日には福岡での第13回労災職業病九州セミナーに参加し「いのちと健康福岡連絡会」を紹介して頂き金谷事件を知って頂きました。
 2003年1月28日、審査請求は棄却されましたが最後の思いを託し東京の労働保険審査会に再審査請求しました。11月29日には、大分での第14回九州セミナーに参加して、初めて「金谷事件の支援の訴え」をさせて頂きました。加茂さんと日下部さんが背中を押してくださったお陰です。私の訴えに涙して聞いてくださる方々がいて「応援するよ、頑張りよ」と、多くの人が声を掛けて下さいました。その時から少しずつ私の中に「頑張れる、頑張ろう」という思いが出来てきました。「私は一人ではない。こんなに応援してくれる方たちがいる。」と思いました。

5 夫の5年目の命日の2003年12月15日、意を決して行政訴訟を福岡地方裁判所へ提訴しました。傍聴には多くの人たちが応援に駆けつけてくださいました。
 2004年2月18日、第1回公判の報告集会で「支援する会」を結成して頂くこととなりました。他県の原告がここ福岡で被災した夫のために闘う決意をしている、「ほっとかれん」と多くの方々が賛同して集まってくださり「金谷過労自殺労災認定訴訟を支援する会」を発足、本格的に活動が始まりました。
 裁判のつど裁判所前での宣伝活動、県労連・地区労連はじめ労組への支援要請、「いのちと健康を守る全国センター」西日本セミナーへ参加して支援を訴える、と支援の輪を広げて行きました。

6 毎回姫路から福岡に来るときはいつも不安な思いでくるのですが、いつも駅に向かえに来てくれる事務局の江崎さん、「トトロ」のニックネームの似合う日下部さん、「色は黒いが白木です、妻の名前はみどりです、家計は赤字です」と白木さん、厳しくもやさしい池田さん、支援の会のホームページを立ち上げてくれた永江さん。いつも傍聴に来てくださる方々一人一人にお会いすると、ほっとして、安心してまた頑張れました。
 ほんとに「泣き虫の私」で皆さんにいつも心配をお掛けしていました。きっと不安だらけの私に「どうしょうもなく」「ほっとかれんな~」と、いつも泣きそうな私に「金谷さんを孤独にしないからね」とやさしく力強く根気強く支援をしてくださいました。支援されることが重荷にならず「大丈夫だよ」と不安な私の心を支えてくれて、いつも帰るときは笑顔になって、また一歩前に進めて頑張ろうと元気になれました。
 会合の後、食事やカラオケに連れて行ってくださったり、「夫が生前ラーメンが好きだった」と言うと「じゃラーメン食べに行きますか」と連れて行ってくださったり。たまたまその日が誕生日だった時にはスナックで夜中12時を待ってみんなでワインで乾杯し、「誕生日おめでとう」と花束で祝ってくださいました。みんなのやさしい心遣いにまた泣いてしまいました。

7 私に取って福岡の地は、夫の命を取られた辛い地です。でも夫の無念を晴らし「労災認定」を勝ち取ることが出来たのも、支援の会の多くの皆様に支えて頂けたお陰と感謝しています。今は福岡は、暖かい人情あふれる多くの方々との出会った感謝の地となりました。最後まで諦めないでよかった。私の事件を機に福岡でも過労死、過労自殺で認定を求め今、闘っている同じ遺族の人たちに勇気と希望を与えたと言ってもらえたなら嬉いし、これからも諦めず頑張って欲しいです。
 今の世の中、夫のようにある日突然他県に単身赴任になり過重労働でうつ病になったり、過労自殺や過労死してしまう危険もあると思います。そうなった時、後に残された遺族が認定を求めることの困難さ不安はこれからも起きうることです。どうかそんな時、他県の遺族を被災した地の労働組合で支えてあげて下さい。そうすることで泣き寝入りしないで、勇気をもって闘って行くことができます。
 私が不安の中最後まで頑張れたように、被災者遺族を「孤独にしない」とやさしく力強く支える運動の輪を広げてください。支援する者とされる者が同じ目的をもってこそ労働組合です。「金谷過労自殺訴訟を支援する会」は素晴らしい支援の会でした。

8 「仕事は自分と家族の為にするもの。自分を大切にしないと家族を守れないからな~」と生前いつも言っていた夫の言葉が忘れられません。
 当時学生だった息子、娘も社会人となり働いています。やはり残業もあります。体だけは壊さないで欲しい。「夫を失って子供まで失いたくない。」いつも思うことです。
 仕事は家族を守る為であって欲しい。仕事で大事な人を失うことのないよう、過労死・過労自殺がこれ以上増えないように。それが私たち遺族の願いです。
 素晴らしい弁護士先生に恵まれたこと、今まで支えてくださった多くの方々と家族の会、「金谷過労自殺訴訟を支援する会」の方々には言葉に言い尽くせない感謝で一杯です。
 ありがとうございました。

(民主法律272号・2008年2月)

2008/02/01