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「ほっとかれめーもん」─「金谷訴訟を支援する会」のたたかい 支援する会会長(前福岡市職員労働組合執行委員長) 日下部恭久(民主法律272号・2008年2月)

支援する会会長 日下部恭久(前福岡市職員労働組合執行委員長)

1 「支援する会」を組織するまで
 兵庫県在住の原告を福岡の労働者が支援し、「金谷訴訟を支援する会」を闘ってきたのは「ほっとかれんめーもん」につきます。「ほっとかれんめーもん」というと、博多的情緒が大きく漂っていますが、実は「支援する会」の運動は、それまでの福岡地域における「過労死闘争」の蓄積とその教訓によるものが大きかったと思います。
 第1に、1980年の終わり頃には、全国運動に触発され、すでに福岡過労死弁護団や過労死研究会の活動が存在していて、その後の福岡市職労の過労死闘争に大きな役割を果たしていました。
 第2に、過労死研究会に参加していた医師などを中心に、「九州社会医学研究所」が設立され、今では、全国レベルでみて高く評価される「労災職業病九州セミナー」を労働者と共同して、九州各県の持ち回りで毎年1000人前後の規模で開催され、 福岡の労働者も積極的に役割を果たしていました。
 第3に、1995年第5回九州セミナー福岡集会の現地実行委員会を母体に、「いのちと健康を守る福岡連絡会」が組織され、地区労連や市職労が組織運営を担ってきていました。2002年の福岡集会では、日下部が実行委員長を務めました。「支援する会」の事務局は、この連絡会と地区労連が務めました。
 第4に、これらの運動がそれぞれ連動しながら、「労働者のいのちと健康を守る運動」は「人間の尊厳を復権させる運動」として展開してことです。
 以上のとおりの運動の蓄積があったからこそ、「支援体制」を立ち上げるまでは、少し時間を要しましたが、そんなに気負うことなくスタートしたといえます。率直なところ「金谷闘争」に参加した「支援する会」の中心メンバーは、逆に感謝しているぐらいです。

2 どんな体制で、どんな運動を展開してきたか
 金谷さんと福岡の労働者を結びつけたのは、「いのちと健康を守る全国センター」との金谷さんの代理人梶原弁護士でした。その後、福岡市職労の加茂過労死裁判(梶原弁護士は代理人)の原告と金谷さんのであいと交流が、労組幹部だけでは及びつかない面をカバーしてくれました。
 「支援する会」の体制は、会長が自治体労働者、事務局長は国公労働者で、幹事クラスに公務労働者が多いのが「会」の特徴でしたが、民放労働者、医療労働者、建設労働者など多彩なメンバーで構成しました。
 具体的運動は、第1に、裁判の傍聴支援です。「自らの課題」といっても、自分の労組員に傍聴を呼びかけに苦労しましたが、原告の期待にこたえる傍聴参加を可能にしてきました。「なんといっても、遠い兵庫から福岡で闘っている金谷さんを孤立させてはならない」は労働者の自然な気持ちでした。第2に、裁判当日の早朝に裁判所前でビラ配布とマイク宣伝です。休むことなく毎回10名前後の参加で実行してきました。余談ですが、裁判所の向かい側に、「電通」の新社屋があり、「電通過労自殺最高栽判決」を例示しつつ、「交通事故死が1万人で交通戦争、今は自殺者3万人を越えている。正に労働者は殺されているといっていい。労働者の皆さん、裁判所に働く皆さん、決して人ごとではありません」という宣伝に、出勤途中の労働者や裁判所職員に共感を呼ぶこともしばしばありました。この宣伝行動は、福岡市職労の加茂過労死裁判での教訓に学んだものでした。ビラ作成とマイクなどの準備は、裁判所近くの国公労働者が担当し、見事にやり抜きました。第3に、労働組合や民主団体への要請行動や「控訴するな」「上告するな」を福岡労働局に直接交渉も展開してきました。金谷さんと共に行くこともあれば、独自でもやりました。第4に、裁判進行にあたって労働者が積極的に意見を述べてきたことです。弁護団と原告と打ち合わせだけでなく、福岡弁護団と「いの健福岡連絡会」や「支援する会」で、口頭弁論の内容についても必ず意見交換を行いました。専門家である弁護士が労働者の意見を聴くことは、簡単なことではありません。しかし、福岡の弁護団はそれをとても大事にしてきました。原告・弁護士・支援の三位一体の闘いの教訓は、福岡市職労の闘いで、到達したものでした。福岡の過労死闘争の最大の意義は、ここにあると確信しています。福岡の勝利判決の中に、被災者の労働実態をリアルにとらえていたのが多かったのも、この闘いの反映だと思います。

3 「支援する会」のひとつの原点「福岡市職労の過労死闘争」
 金谷訴訟では、当該労働組合の取り組みはありませんでした。今こそ、過労死根絶のために、労働組合の果たすべき役割が強くもとめられています。労働組合が組織を上げて、全面的に闘ってきたのが、福岡市職員2人の公務災害認定闘争でした。個人的かかわりもと思いも含め報告します。
 1989年ごろ、若年層の在職死が続き、「とびうめ国体(90年)」事務局の係長(死亡時46歳)と教育委員会職員(同38歳)の過労死認定を労組として求めるかどうか、鋭く突きつけられました。「認定の取り組み」を呼びかけてくれたのは、過労死弁護団の梶原弁護士でした。「認定実現は、針の穴にロープを通すようなもの」と消極的だった私に、同じ組合役員が「過労死を取り組まなくて、なにが労働組合か」と鋭く迫ったので、「お前は10年本気で闘う覚悟があるか。担当が替わりましたでは、遺族に責任がとれない」反論したが、「10年闘う」と宣言(1人ではなかった)され、組織を挙げて取り組むこととしました。「軽んじられてたまるか働くもののいのち」をスローガンに、「過労死しか言わない」から「過労死の市職労」といわれるようになり、健康問題が常に労使交渉の中心課題とまでなりました。
 2人の認定は、国体事務局事案は、支部審査会で認定させ、加茂事案も裁判の地裁で画期的な勝利判決を勝ち取りました。しかし、控訴審で、「時間外勤務時間数の認定基準のカベに阻まれ」て、敗訴しました。原告の意向を受け、上告しませんでした。それは、闘争を開始するに当たって「遺族当事者の思い、気持ち、感情を最大限尊重する」「闘いの継続は、遺族の判断に従う」を確認していたからです。裁判を終えた原告は、現在新たな幸せな生活を送っておられ、金谷さんを常に励ましてくれました。
 私は、1970年代から80年代にかけて、福岡の薬害スモン訴訟闘争に労働組合として参加し、また、その延長で障害者の共同作業所づくりにも運営参加してきましたが、そこで学んだのは、大げさにいうとまわりの人がひきまわしてはいけないことでした。確かに、裁判等においては、「勝ち負け」は大切ですが、それだけではないと思います。スモン闘争も、過労死闘争も、被害者、被災者の速やかな救済と同時に再び発生させないこと、つまり、薬害根絶、過労死根絶に最大の目的があります。「勝ち負け」だけでは、虚しさしか残りません。市職労2人の時は委員長として、金谷さんの時は支援する会会長として、「負けた時にどう対応するか」をいつも考えていました。遺族、被災者にかかわることとは、そんなことだと思ってきたからです。金谷さんとの出合いもその道筋の中にありました。
 偶々であった人が兵庫県の人だったということかもしれません。そして、福岡の闘う仲間が金谷さんの気持ちや感情を本当に大事にしてきたことに誇りを持つと同時に、「福岡の地は、夫を奪った地だけど、温かさを感じる地になった」という金谷さんの言葉に「支援する会」は集約されたのだと思います。
 そして私はいま、金谷さんに励まされて開始された福岡の自治体職員の過労自殺訴訟について、「勝手に原告(両親)とともに歩く会」をつくり、過労死根絶の闘いを歩き続けることにしています。

(民主法律272号・2008年2月)

2008/02/01