過労死問題について知る

HOME > 過労死問題について知る > 勝利事例・取り組み等の紹介 > 過労死事件の支援を受けた遺族の思い トヨタ自動車過労死裁判原告 内野博子(民主法...

過労死事件の支援を受けた遺族の思い トヨタ自動車過労死裁判原告 内野博子(民主法律272号・2008年2月)

トヨタ自動車過労死裁判原告 内野博子

1.2007年11月30日名古屋地裁において、トヨタ自動車勤務だった夫の労災について、豊田労働基準監督署の不支給決定を取り消す判決があり、12月14日に確定しました。
 6年近くにわたる認定を求める活動がやっと終わるかと思いましたが、実はまだ認められていません。再決定のための労基署の計算方法がおかしいのです。判決で認められた106時間の残業時間で算定せず、申請当初の会社が出した少ない額で認定しようとしたのです。私にとっては金額の問題ではありません。それでは結局、夫は仕事をしていなかったことになってしまいます。何のために裁判までして、夫の努力を認めてもらうために頑張ったのか、裁判でサービス残業が立証されたのに、労基署がまたそれをもとに戻そうとしているように感じ、とても悔しく思いました。
 是正を要請しても受け入れられなかったので、厚生労働大臣にまで会いに行って、行政への指導をお願いしたら、少しずつ悪しき行政が動き出しました。トヨタに再計算をさせているようですがまだ心配です。本当にいろんな人の助けを受けて、ここまで来ました。

2.私の夫は、2002年2月9日土曜日の早朝、トヨタ自動車堤工場で上司と残業中、突然心臓が止まって倒れました。何の応急措置もできず、脈もとれない工場の私設救急車でトヨタ記念病院へ運ばれ、そのまま帰ってきませんでした。まだ30才で、1才と3才の子どもを残して逝ってしまいましたが、いつもニコニコして人のために動くような優しい人でした。持病はありませんでしたし、ただ忙しかったので、仕事が原因に違いないという思いだけがはっきりとしていました。

3.夫の両親と祖父はトヨタの社員でしたので、夫は三代目でした。だから、まだ現役だった義父さんの会社への思いはいろいろあったと思いますが、通夜の席で会社の人たちに向かって「労災申請します」と言ったのです。息子を亡くし、どんなに無念だったか分りません。聞いていた会社の人たちは何も言えず、下を向いて黙っていました。
 悲しみと同時に「なぜ?」と疑問が絶えず、何とか儀式を終えたあと、私はすぐに情報を集め始めました。とにかく会社にいた時間を計算しようと、出勤・帰宅時間をメモしていたカレンダーや、給油時間の分かるレシート、携帯電話の通話記録などをまとめ始めました。
 ここからは、孤独な作業です。親族の協力は申請と死因の把握までにとどまり、それ以上の活動は逆に反対をされました。トヨタのお膝元である地域で、人と違うことをするのははばかられるのです。夫の両親には活動時に子守りのお願いができるようにして、活動の話はせずにいい関係を継続していきました。

4.そんな時、夫のいとこからメールで、東京の「いのちと健康センター」を紹介してもらいました。訳も分からず、とりあえずの状況を書いて送ったら、丁寧な返事が届き、名古屋にある「愛知働くもののいのちと健康センター」を紹介されました。すると、そこでボランティアをされていた鈴木先生が、認定基準についての質問をいくつかして下さいました。まずは、直前一か月の残業時間が100時間を超えるか?直前6か月の平均残業時間が80時間を超えるか?亡くなる直前にトラブルはあったか?死因は労災の認定疾病にあたるか?などだったと思います。自分で調べる上で、対象が明確になって助かりました。
 鈴木先生は、後に支援の会の事務局にも入って下さり、様々な資料作成など大変助けていただきました。

5.会社の対応はというと、意外にも夫が亡くなって2週間ほどで窓口である人事担当者と会い、すぐに労災を申請することになりました。後で考えると、この時点で労災の申請がうまくいかないケースもあるという中、申請自体は会社の印鑑もあり、スムーズにいきました。その人事担当者とやりとりをしながら、「何が大変だったのか」「どのくらい会社にいたのか」をつめていきました。労基署に出した会社の書類もコピーしてもらいました。上司にも5月に一度会いましたが、その時には「会社も認める方向だ」と言っていました。

6.同じころ、人事担当者に連れられて、初めてトヨタ自動車労働組合の堤支部という所へ出向きました。私は労働組合とは何かという事をよく理解していなかったので、人事担当者と組合の人間が仲良く並んで談笑していることが変だということにも気が付きませんでした。これが労使協調の現場です。労働組合というものが労働についての相談を受けたりする所だと知っていれば、夫が大変な時期に相談をしていたかもしれません。
 その時、組合側からある資料を渡されました。それは、以前に私が、夫が大変だと言っていたことをまとめて書いて会社に出していたものの回答でした。組合が返したその回答を見て絶句しました。持ち帰って夜中に作成したQCサークル活動記録について、「係・課代表を目指して自らパソコンで再作成した」とか、EXなのにGLの仕事が多かったことについて「優しさと前向きで対応してくれた」など、さも自分で勝手にやったんだというような回答が多かったのです。しかも、笑いながら「自分も子供の発表会に行ったことがない」という姿に、唖然としました。相談に行った遺族を前にした人のすることと思えず、会社の人事担当者の方が頼りになると思い、諦めました。提訴時にも行きましたが、以前に対応済との対処で、何もしてくれませんでした。

7.こつこつと自分で一年にわたる家族の行動記録をまとめた頃、あるトヨタ社員から電話がありました。何人か支援をしたい人がいるけれど、どうですか、と。これが、今まで全面的に支援していただいた「支援の会」が発足するきっかけでした。特に、組合や他からの支援を受けていた訳ではないので、少しずつ協力していただくことになりました。
 そして、残業時間の表を一緒にまとめ、水野弁護士に相談しながら、直前一か月の残業時間が144時間という表を作ることができました。
 つまり、支援の会は組合のような団体ではないため、本当にいろんな経歴の一市民が集まったもので、一つの事にも四苦八苦しながら、ゆっくり一つずつできた会でした。

8.結局、労災申請と審査請求が棄却され、裁判が始まりましたが、それぞれの支援の力を合わせて、協力しながら進むことになりました。
 弁護団とやりとりする中で、夫の仕事の中身を把握することが大事だと分かると、同じタイプの仕事をしていた支援の人に聞いて、準備書面を作成することができました。私は、原告でしか分からない実体験を話したり、陳述書を書いたりしました。支援の会は運動体として、いろんな団体の会合に出掛けて署名を集めたり、支援の会の会員を募って裁判の傍聴へ来てもらったりしました。こうして、弁護団支援の会、その他の支援者、原告がそれぞれの役割分担をし、それが一つになって大きな力になったと感じます。

9.判決の日は、本当に多くの人が関心をもって来てくださいました。トヨタ自動車ということで、メディアからも注目されましたが、おおむね好意的に取り扱って下さったことは励みになりました。過労死裁判の勝利判決ということで、社会的に日本の働き方の問題に一石を投じたのかもしれません。CNNやザ・タイムズ、エコノミスト、フランス24など、海外からも注目されました。これらの質問の中で「労働組合は何をしているのか」という質問が必ずありました。海外ではもっと労働組合が強いから、トヨタのような労使協調の労働組合は意味が分からないようです。

10.ともかく、企業は利益を追求するための働き方を追求するものです。しかし、労働者はロボットではありません。ハンドルに遊びがあるように、人間にもゆとりが必要です。本来はトヨタも労働組合が労働者側の立場に立って、会社との妥協点を作るべきです。そして、会社を指導するのが労基署の仕事です。
 今後はそうした本来の機能を取り戻すべく、何か力になれることがあれば行動しながら、無理せず前を向いて生きていきたいと思います。

(民主法律272号・2008年2月)

2008/02/01