過労死問題について知る

HOME > 過労死問題について知る > 勝利事例・取り組み等の紹介 > 「過労死のない社会へ、行動を」─新しい段階を迎えた過労死家族の会の活動 大阪過労...

「過労死のない社会へ、行動を」─新しい段階を迎えた過労死家族の会の活動 大阪過労死を考える家族の会事務局 北村 仁(民主法律268号・2007年2月)

大阪過労死を考える家族の会 事務局 北村 仁

1 はじめに
 「大阪過労死を考える家族の会」(以下、家族の会)が結成されたのは、1990年12月8日のことで、この12月8日は日本が、第二次世界大戦に突入した「真珠湾攻撃」の日です。労働現場が「戦場」化しつつあった当時、企業において戦死者をこれ以上出さないようにという遺族の願いで、この日に結成されたと、結成当時からの会員から聞きました。その願いも虚しく、現在の労働現場は、完全に「戦場」となっています。
 私自身は、2000年12月9日の、家族の会結成10周年「過労死を考える集い」からの参加になりますので、結成当時の事は、当時の資料あるいは結成当時から活動している遺族の方々から聞いて知っている範囲です。
 私も、働き過ぎによって命を落とすということについては無知であり、「よく働き、よく遊ぶ」ことを、男の美学と感じておりました。しかし、1999年9月23日深夜、急性心筋梗塞を発症し、生死の淵をさまようことで、人間は働き過ぎたら死ぬのだということを初めて思い知らされました。労災申請して認定された後、大阪過労死問題連絡会の先生に相談し、民事裁判を受任していただいてから、家族の会の仲間に加わり、存命の私が遺族の方々に励まされ、企業責任を問い、一定の成果を出すことが出来ました。その後、家族の会の世話人兼事務局員という形で、深く家族の会と関わるようになり、今では私のライフワークとなっています。

2 家族の会の活動の目的
 家族の会の目的として、下記の4つのことが規約で定められています。
(1) 本会は過労で倒れた本人とその家族或いは遺族の為に、労・公災認定の早期実現を目指すと共に、労・公災補償の改善と民事賠償に取り組む。
(2) 被災者の遺・家族及び被災者及び過労死に関心のある団体・個人とが手を結び、過労死の問題を広く社会にアピールしていく。
(3) 過労死の発生する社会的背景について、企業及び監督官庁の健康・安全管理等の問題点を明らかにし、過労死発生の予防に取り組む。
(4) 「家族」相互の情報交換を密にし、支え合い励まし合って連帯の輪を広げていく。
 以上の4点を柱に、実際の活動内容を要約すると「認定、裁判支援・認定基準、訴訟知識の学習・遺族及び支援者との交流・社会、行政へのアピール発信」等を、行っています。

3 学び合い、励まし合う交流の広がり
 1990年の結成からの10年間は、労災認定が非常に難しい10年間でした。この間の苦しい活動を通じて「過労死」という問題について広く社会に認知させ、2001年12月12日に「新・認定基準」に改定させるという大きな成果を得ることが出来ました。この認定基準の改定により、更に多くの遺族が救済されるようになりました。
 しかし、この頃から「過労死」に加え「過労自死」事案が急激に増えてきました。更に、結成当時は主に40歳後半か50歳代が中心であった被災者が、若い世代(20・30歳代)においても増大し、幼い子供を抱えた遺族、究極にはお父さんに抱かれたことがない遺児まで作ってしまうような時代になったのでした。毎月1回定期的に行っている家族の会例会にも、続々と若い遺族が加わるようになりました。
 1997年で途切れていた遺族の交流会も2002年6月8日に大阪中央区の宿泊施設において「一泊学習交流会」という形で復活させ、2003年度の東大阪市で開かれた一泊学習交流会からは子供同伴可能の交流会になりました。大阪家族の会員以外の地域の遺族にも呼びかけ毎年約60名を越す参加者で恒例行事に位置づけられ、翌2004年度からは奈良県桜井市の国民年金保養所「大和路」に会場を移し現在に至っています。遠くは新潟・群馬・福岡他全国各地からも多くの遺族が参加されるようになり、交流は深夜に及びます。
 昨年(2006年)の交流会では、一日目に東京から過労死問題の第一人者の上畑鉄之丞先生を講師にお招きして学習を、二日目は「過労死グループ」と「過労自死グループ」と二グループに分け、アドバイザーの弁護士・医師・支援者の方々にも加わっていただき、グループミーティングを初めて行い、好評を得ることが出来ました。
 時代の流れも、アナログからデジタル時代に突入し、若い世代を中心に家族の会の情報をインターネットにより求めるようになって来ました。岩城先生からの勧めで、ホームページを作成することになり、講習に出かけ初心者の私が拙いホームページを立ち上げて早3年が過ぎました。ホームページからの相談に、大阪過労死問題連絡会の先生方に協力・支援を仰ぎ、過労死の認定を得ることが出来た方からの嬉しい報告が届いた時は、ホームページを立ち上げて本当に良かったと嬉しさがこみ上げてきました。大阪過労死を考えるホームページは、大阪過労死問題連絡会のホームページと共に、全国の遺族の駆け込み寺になっています。更に、過労死家族のメーリングリストも全国の過労死遺族の重要な交流の場になっています。
 2003年6月28日には、大阪過労死を考える家族の会労災・裁判支援基金を設立しました。賛同していただいた方からの浄財カンパで運用し、認定闘争に必要な資金支援の体制も出来上がりました。

4 過労死・過労自死をなくすために行動する会へ
 過労死の認定基準が緩和されてきたといっても、まだまだ認定されないケースがたくさんあります。また過労自死の認定基準は実態に合わず、多くの過労自死遺族が涙を飲んでいます。これを打開するには、認定基準やその運用の改善がどうしても必要です。
 また、そのような改善を勝ち取るには、過労死・過労自死に対する世間の理解をもっともっと広げる必要があります。
 そこで、認定や勝訴を勝ち取り自分の事件が終わった遺族も一緒になって、認定基準やその運用の改善を求め、また世間に広く過労死・過労自死をなくそうと訴える活動に、会として取り組み始めました。
 毎年11月に全国家族の会として行っている厚生労働省交渉には、大阪を含め全国で闘っている多くの遺族が参加し、厚労省の担当者に直接訴えをしています。
 また、2003年からは年に数回、「過労死110番」の実施に合わせ、遺族が街頭に立ちマイクを握り、過労死のない社会の実現を目指し、遺族の体験を通行人に呼びかける活動を行うようになりました。
 2006年11月24・25日に上演した劇「あの子が死んだ朝」実行委員会の活動においても、遺族が広告塔となり色々な団体に過労死・過労自死について訴えに行き、取り組みの成功に大きな役割を果たしました。
 さらに、今導入されようとしているホワイトカラーエグゼンプションは「過労死促進法」であり、これが導入されると過労死・過労自死がますます増え、また倒れても本人の自己責任とされ労災認定も難しくなるといわれていることから、過労死遺族の中でも大きな不安と反対の声が広がっています。2006年11月22日には全国過労死を考える家族の会総会において緊急アピールを発し、また大阪でも、「働き方を考える大阪ネット」に結成準備から関わり、遺族がリレートークに積極的に加わるなど、過労死・過労自殺の悲惨さと、人間らしい働き方の大切さを訴える「語り部」としての活動を行っています。
 このように、過労死・過労自死の無い社会の実現を目指す活動の中心に遺族が主体的に活動に参加するようになったのは、大きな前進であると誇らしく思っています。遺族でなければ訴えられないことを、率先して主体的に遺族が訴え、過労死撲滅の先鋒として社会にメッセージを発することが出来る団体に成熟してきたと感じています。

5 家族の会へのいっそうのご支援を
 結成以来16年間の遺族の頑張りで、大きな成果を得てきましたが全員が救済されるということはありません。裁判闘争で勝ち取った判決を積み上げ、近年増加の一途である自死事案の認定基準、労働実態に合致した過労死認定基準の改定へと前進しなければなりません。
 結成当時の初心に戻り、『過労死撲滅』に向け更に前進すると共に、遺族のネットワークを密にし、共通の悲しみを持つ仲間の集団として「運動」+「癒し」が共存できる家族の会でなければならないと私は考えています。
 今後とも皆様からの、あたたかいご支援をお願い致します。

(民主法律268号・2007年2月)

2007/02/01