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=仮説=教員が死ぬほど忙しい理由 弁護士 城塚健之(民主法律時報376号・2003年9月)

弁護士 城塚健之

  小林つとむ会長からの突然の電話で、お盆の最中に府高教北河内支部の教研集会の講師を引き受けることになった。一瞬の虚をつかれて「その日は空いてますけど…」と答えたのが運の尽きだった。ところが、ただでさえ非常識な時期である上、組合からの当初の依頼内容が「生徒に教えるべき労働法とは」などというものだったから、頭が痛くなってきた。そんなことは教育のプロが考えるべき問題ではないのか。幹事会が終わったあとの昼飯時に小林会長にも苦情を言った。すると、小林会長曰く、「お盆の最中という非常識な日に講師を引き受けることに意義があるのであって、中身は二の次だ」「さすが大物は言うことが違う」と思って気を取り直した(が、なんだか丸め込まれた気がしないでもない)。
  さて、打ち合わせの結果、組合の本当の関心は長時間労働問題にあるようだったので、勉強し始めてみると、「国立及び公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法」(給特法、昭和四六年五月制定)という、とんでもない法律があることが分かった。この法律は、月給の四%の教職調整額支給と引換に、国公立学校の教職員から時間外手当請求権を剥奪しているのである(国については給与法一六条、一七条、地方については労基法三七条が適用除外)。そのかわり、給特条例などで、原則として時間外勤務は命じないものとし、例外的に、①生徒の実習、②学校行事、③教職員会議、④非常災害等の場合にのみ、時間外勤務を命じうるとされている。しかし、そんな建前はどこかに吹っ飛んでしまっていて、慢性的に長時間過密労働を強いられているのが現実。違法な超勤命令にも時間外手当を支払わないのはひどいではないかと、名古屋でいくつかの裁判の事例があるが、いずれも校長の「依頼」に基づくもので命令ではなかった、などの理由で敗訴している。
  まったくもってひどい話である。教育界では世間の非常識がまかり通っているとはよくいうが。それなのに、こういう仕組みも実態も、教職員以外の世界にほとんど知られていないというのはどういうことか(だからこそ非常識がまかり通るんだろうが)。少なくとも私が弁護士になって以来、『民主法律』や『民主法律時報』で見たことはないし、総会や権利討論集会で発言を聞いたこともない(はるか昔は知らないが)。給特法は六法全書にも載っていないから、あながち私の不勉強のせいというわけでもないだろう。大教組や府高教は民法協内できちんと訴えをすべきである。
  もっとも私の関心は、今日、サービス残業問題で労基署が厳しい取り締まりを展開しているのに、なぜ教職員の長時間労働の実態にメスが入らないかにある。
  ここからは私の仮説である。厚労省のスタンスは、雇用流動化を所与の前提として、労働市場をいかに整備するかにある。そこで必要とされるのは「透明なルール」であり「コンプライアンス」。サービス残業はこの精神に反し、不公正競争として外国政府(外国資本)から指弾されるおそれもある。WTO提訴なんてされてはかなわない。だから近年、武富士への強制捜査など、サービス残業に対しては厳しい姿勢をとっているのではないか。
  ところが、教育の世界を支配するのはウルトラ保守の教育委員会。それほど市場原理が入り込んできているわけではない(最近は総合規制改革会議などが株式会社の参入を求めてはいるが)。監督機関の人事委員会等としても、給特法という都合のいい法律のお陰でサービス残業なんて言われる心配もないから気楽なものである(給特条例違反の違法残業という問題はあるけど)。
  それどころか、新自由主義が進行し、社会が分裂してくると、これを再統合するための支配の道具として、教育の果たす役割はますます大きくなる。しかし、ただでさえ財政危機が深刻な折り、できの悪い子どものためにお金はかけられない(治安悪化により警察は人員を増やすそうだけど)。したがって、給特法という便利なツールはこれからも目一杯活用し、教職員には「聖職者」として社会統合のためにもっともっと無料奉仕してもらわなければならないと考えているのではないか…。
  この仮説が正しいかどうかはともかく、私の言いたいのは、超勤問題をそれだけでとらえていてはだめで、新自由主義や新国家主義の流れの中に位置づけて考える必要があるということである。そうでないと、「ただでさえ親方日の丸の公立学校の教師がまたわがままを言っている」として公務員バッシングに利用されかねない。何よりも、教え子がまともな仕事に就けず、未来に展望を持てない世の中である。そうした現実と超勤問題とを結びつける運動をしないことには、保護者も共感できないのではないか。およそ運動には、世界全体を見るトータルな視点が不可欠であり、これを欠いては、よくて停滞、悪くすると逆に利用されてしまう危険すらある。
  それではトータルに捉えられたとして、次にどうするか。これはもう、みんなで知恵を絞るしかないのであるが、私は、教育職員は「聖職者」ではなく、憲法一五条二項に基づく公共性の実現を使命とする「公務労働者」であり、公共性を担うためには、人間らしい労働条件という前提条件が必要であって、その一つが勤務時間の短縮であるという捉え方が一つのポイントになるのではないかと考えている。  なお、運動の突破口を作るためには、このとんでもない給特法の射程距離を縮めるべく、違法な超勤命令については時間外手当を支払うべきとの裁判闘争を構えることも選択肢の一つかもしれない。これは組合サイドでよく検討してください。
(民主法律時報376号・2003年9月)

 

2003/09/01