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新刊紹介 田尻俊一郎過労死問題意見書集「道標」 弁護士 松丸 正(民主法律時報321号・1999年2月)

弁護士 松丸 正

 この意見書集は1971年7月6日付の新開発送業務に従事していた29才の労働者のクモ膜下出血死についての意見書からはじまる。

 大阪過労死問題連絡会はこの意見書に10年も遅れて1981年7月に結成されている。会の結成当時でも、それを報じるある新聞は「ポックリ死の連絡会結成される」と見出しに書いた。過労死という言葉は未だなく、会の名称も「急性死問題連絡会」であった。

 過労死という言葉が生まれる1981年の段階で、田尻医師は既に24件の過労死認定事件に医師として関与しており、うち13件について業務上認定を得ている。1981年までの意見書が9通「道標」には収められている。いずれも業務上と判断されたものである。災害主義と言われた当時の狭い認定基準のもとで、田尻医師の関与した認定事件の殆どが業務上の決定を得ていたことは刮目さるべきことである。

 連絡会結成後はその会長として、労災認定の狭き門の前にたじろぎがちなこともあった弁護士ら会のメンバーに対し、「遺族の駆け込み寺でいいからポチポチいこや」とやさしく励まし、過労死運動をリードしていった。

 この間70通近い意見書を作成し、その事件のうちほぼ半数は認定されている。この書にはうち29通の意見書が載せられているが、職種、地位、年齢そして病名の多様性からしても過労死が日本の労働現場の普遍的、一方的な問題であることを明らかにしている。

 田尻医師の意見書は、「労働者やその家族の訴えに耳を傾け、やっとの思いで明らかにすることのできた真実」を基礎にして、個々の事件特有の争点(キーワード)を明らかにして、労働医学の確実なそして最新の知見に基づいて作成されている。

 各意見書の冒頭に書かれた田尻医師の「残された奥さんや子供さんたちはお元気だろうか」「手術で命は助かったけれども、もとの運転職に戻ることはできず、離婚したとの話も伝え聞いた。いまでもこころ痛む思いがする」などの言葉の端々、そして意見書本文のなかに、労働者の仕事とくらしをやさしく視る眼を感じる。

 過労死の認定率はかつての数パーセント台から20パーセント近い数字に前進してきている。

 「軽い重労働」など労働負担の事実のうえにたって、過重性を明らかにしてきた田尻医師ら良心的医師の論埋が、医学の「権威」をもって過労死を切り捨ててきた局医の論理を圧倒してきた結果でもあろう。

 「希望とは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなればそれが道になるのだ」という、ある偉大な文学者の言葉がある。田尻医師が今から30年近く前、労働者、遺族らと共に歩きはじめ大地が踏み固められ道になっている。

 この書は労災認定にとりくむ者にとってのみならず、職場の労働改善を考えるにあたっても「道標」となるにちがいない。

    申込 民主法律協会まで
(民主法律時報321号・1999年2月)

1999/02/01