過労死問題について知る

HOME > 過労死問題について知る > 勝利事例・取り組み等の紹介 > 若き証券営業マンの死-亀井事件- 弁護士 脇山 拓(民主法律216号・1993年...

若き証券営業マンの死-亀井事件- 弁護士 脇山 拓(民主法律216号・1993年2月)

弁護士 脇山 拓

一 故亀井修二さんは、1987(昭和62)年3月近畿大学を卒業し、エース証券株式会社に入社し、営業第一課に配属され、証券外務員として営業活動に従事するようになりました。
  証券外務印には、会社から顧客を与えられるタイプの外務員と、自らの営業活動をもって新規に顧客を開拓し、その顧客を自分の顧客として定着させていく自己開拓型の外務員という2つのタイプがありますが、亀井さんは後者の自己開拓型の外務一員として働いていました。
  亀井さんは、以下のような証券営業マンとしての激しい業務のために、1990(平成元)年10月20日、会社の親睦旅行先の旅館で急性心不全で死亡しました。後には、妻のY子さんと2人の子ども(死亡当時、Y子さんは第二子の妊娠中でした)が残されました。

二 亀井さんの仕事
 1 会社の所定労働時間は午前8時40分から午後5時までですが、実際の亀井さんの一般的な業務パターンは、左記のようなものでした。
  午前6時50分 出社
           顧客へ新聞送付。日経新聞に日を通す。
  午前7時10分 海外市況をみる。必要な時はTEL外交を開始。
           プライベートレターの作成。
           資料送付。
  午前8時10分 TEL外交を本格開始。
  午前8時40分 本店第1営業部、会議に出席(朝のミーティング)
  午前9時    TEL外交 約100件
  午前11時   受け渡し。周辺外交。昼食(取れないことも多い)。
  牛後1時    TEL外交 約100件
  午後3時    訪問外交(新規開拓、募集、カネ入れ営業が中心)。
  午後7時    自主時間~1日のまとめプラスアルファ
           外交ノートまとめ
           プライベートレター作成
           その他資料作成
  午後10時   退社

  これは、後でも触れますが、亀井さんが営業成績が優秀なセールスマンであったことから、会社が新人研修用に作成した資料に「亀井君の一日」として紹介されているものです。
  妻のY子さんの話によると、実際にはこのように午後10時に退社できるのなら早い方で、午前様の帰宅も珍しくなかったそうです。
  また、週休二日制を取っているのですが、実際には亀井さんは土曜日、日曜日にも出社して資料作成などの業務を行っていました。
  こうした長時間の労働を行っていたのですが、亀井さんには一円の残業手当も支払われていません。すべて完全なサービス残業なのです。
  残業をしなければこなせないノルマを与えておいて、残業代は払わないという日本型経営の典型例を見ることができます。

 2 亀井さんの営業成績を会社が作成した「62年生~63年生ヤング預かり資産番付表」で見てみると、昭和63年12月末付けの「番付表」では東の関脇(東西の横綱、大関が該当者なしであり、実質はトップ)、そして平成元年8月未付けでは東の横綱に「昇進」しています。同期入社の者の中で、トップの実績をあげていたのです。
  こうした優秀な営業マンであったため、自らのノルマのみならず、課全体のノルマについても達成のために彼の活躍への期待が集まり、それに答えなければならないという状況でした。

 3  外務員としての業務の他に、亀井さんは1988(昭和63)年末から新人教育の担当(インストラクター)を命じられました。これは他の同僚や先輩もしていない仕事である上、後輩がノルマ等を達成できない時には、亀井さんが「指導せよ」と会社から怒られるという立場になるもので、大変ストレスが溜まる業務でした。
  しかし、亀井さんは後輩の面倒をよく見てやり、その信望は厚かったのです。

三 9月の株価の低落と10月1日の大暴落
  平成2年10月1日、株価は大暴落しました。すでに9月末まで、株価はじりじりと下がり続け、ダウ平均が2万円を割っていたところへの追いうちをかけたのが、この大暴落でした。
  この9月から10月にかけての株価の低迷と大暴落は、顧客の預かり証拠金の不足を産み出し、証券営業マンはその追い証を取ることに忙殺されるという事態を産み出しました。
  これは証券営業マンにとって、きわめてストレスの多い、困難な業務です。なぜなら、ただでさえ、顧客は株の暴落によって、多大な損失を被っているのに、さらに追加金の請求をするのですから、一種傷口に塩を塗るように受け止められるわけです。
  そのため、上司から追い証の回収の指示を受けてノルマを課せられても、そのつらさゆえに、実際上は、それを当面放ったらかしにしておく営業マンも多くいました。
  しかし、亀井さんは、密接な顧客との連絡と説得のもとに、追い証を必要とされる前に、顧客と大胆に腹を割って話をして、顧客に持株を処分させて、証拠金不足を事前に防だり、追い証が必要となっても、即座に追加担保を顧客に出させるなどして、追い証を入れる業務をためこむようなことはありませんでした。
  こうした方法は、積極的に顧客とぶつかって処理していくやり方ですから、それだけエネルギーを要しますし、ストレスも多くなります。したがって、亀井さんのように、事前に損切りさせたり、即座に追加担保を出させるためには、それだけ日常から顧客との親密な関係を築いておき、損させた場合でもアフターケアーを怠らないことが鍵になるのです。
  亀井さんはトップクラスの営業成績をあげていただけに、一旦暴落ということになると、顧客に生じる損失も大きく、その事後処理に必要な業務量も当然増えます。担当顧客が多いだけ、個性の強い顧客も抱えることになり、より困難な「火消し」の業務も増えることになります。亀井さんは、決して弱音を吐く人間ではなかったのですが、この9月から10月にかけての暴落に対する事後処理の業務は、亀井さんの成績がよかっただけに、より過重な負担となって重くのしかかっていたのです。

四 亀井さんの死
  このような特異な相場環境の中で、連日顧客の問を走り回りながら、亀井さんは10月18日の新入社員研修での講師の準備活動を行わねばならず、これが時間的にも精神的にも、亀井さんの業務を圧迫したのです。
  この研修は毎年、新入営業マンを対象にけ付われ、比較的若い優秀な営業マンが、新入社員にその苦労やノウハウを教示し、その士気を高めることを目的としていて、亀井さんはトップセールスマンの一人として、スピーカーに選ばれたのです。亀井さんは祐子さんに、上司を差し置いて若い亀井さんが研修の講師を行うことは、人間関係上つらい、お客さんに叱られる方が気が楽だ、とこぼしていたのです。
  18日の研修は午後3時に始まり、亀井さんはセールスの心構えやトーク術、苦労などを話しています。その中で彼は、営業マンを数年していると体力が極端に落ちる、と述べています。ストレスか大きく、きわめて不規則な業務であることを意識しての発言でしょう。
  さらに10月19日からは、社内の恒例行事としての親睦旅行が計画されており、週末がつぶれるために、この週はその分だけ事前に業務を処理しておく必要に迫られており、顧客との連絡業務等がより過密化していたのです。

五 労災申請へ
  亀井さんの死が過労死ではないかと考えたY子さんは、大証労組の組合員を通じて大阪過労死問題連絡会とも相談し、会社に労災申請に協力するよう依頼しました。
  会社は、当初は協力するということでしたが、いざ申請という段階を迎えると、「会社としては私病と考えている」と述べて、申請書類の証明印の押印すら拒否するという態度に変わりました。
  しかし、多くのマスコミがこの事件に注目し、この事件をきっかけにサービス残業問題を取り上げた報道特集がいくつも作成されています。
  今後、支援する会の結成や、大証労組とも協力して証券営業マンの業務実態、業務の過重性の分析等を行って、大変厳しいホワイトカラーの過労死の労災認定を何としても勝ち取り、過労死とサービス残業の根絶の一助としたいと考えています。
  皆さんのご支援をお願いいたします。
          (弁護団は、脇山拓、松丸正、村田浩治、池田直樹)
                                        (民主法律216号・1993年2月)

1993/02/01