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ノルマ競争の中で失われた定時意識 エース証券トップセールスマン過労死事件 弁護士 松丸 正(民主法律時報261号・1993年1月)

弁護士 松丸 正

1 サービス残業への取り組み
 大阪過労死問題連絡会では、勤労感謝の日に因み、3つの企画に取り組んだ。11月12日にサービス残業のなか倒れたエース証券のトップセールスマン亡亀井修二さんの過労死の労災請求手続、11月21日にサービス残業110番、11月24日に民法協、基礎経済科学研究所との共催での「さよなら(S)おかしな(0)サービス残業(S)」のシンポジウムである。
 営業職を中心としたホワイトカラーあるいは中間管理職の過労死の労災認定にあたって、その業務の過重性の中心は、記録上明らかでないグレーな労働時間とも言うべきサービス残業(別名ふろしき、ボランティア残業等)にある。
 しかし、サービス残業は労基法に明らかに違反しているため、記録は残されないどころか、被災者のその業務の実態を調査しようとしても、企業はそれに口を閉ざし、調査を拒否することが殆どである。
 現に、当連絡会の業務上認定を得たケースのうち、ホワイトカラーについて、その業務の過重性に注目して認定されたものは皆無である。
 請求件数の増加しているホワイトカラーの過労死の労災認定を前進させるためにも、との思いでこの問題に取り組むことになった。

2 亀井さんの業務内容

 亡亀井修二さんは、1987年3月近畿大学を卒業後、エース証券に入社し、本店営業第一課に配属され、1990年10月20日社員旅行先で急性心不全を発症し亡くなった。後には妻祐子さんと1歳の長女ゆき奈ちゃん、そして亡くなった翌年の5月には父さんの手のぬくもりも知らない長男が生まれている。
 彼は、入社したその日に顧客からの注文をとるなど、新人の営業マンのなかでもまさにエースとしてその営業競争の先頭を走り、入社の翌年には顧客よりの預かり資産についての番付表では関脇に、更にその翌年には横綱としてトップを極めている。
 亡くなる直前の1990年4月~9月末での前期での同期生との営業量の比較はつぎのとおりである。
(亀井さん)     (同期生)
①預かり資産(円)
 18億6310万 7億3126万
②株式手数料
 3204万円   901万円
③投信募集額
1億212万円 3229万円
 このような営業成績をあげるため、出向いた顧客先で、客からこの一升瓶を飲みほしたら契約してやると言われ一升瓶を必死に飲み干したり、顧客宅の門前で早朝ごとに何日問も立ちつくして資産を預けてくれるよう依頼するなどしている。
 彼の1日の仕事ぶりは、亀井さんが新人研修の講師として話した際の「亀井君の一日」と称する会社作成資料からもうかがえる。
 それによれば、午前6時50分出社し、午後10時にようやく仕事を終えることとなっている。実に15時間を超える労働であり、妻Y子さんの話では夜はもっと遅くまで仕事をしていたと言う。
 これに対して、給与明細表上は時間外手当の欄はあっても空欄のままで、手当は全く支給されないサービス残業となっている。
 ある同僚が、新人が入社したとき、「自分は午前7時前に出勤しているのに8時30分頃に出勤してくるので、何でこんなに遅く出勤するんだと怒は、サービス残業の実態を明らかにしホワイトカラーの労災認定を前進させるため重要な意味をもつ。支援する会の結成など、会員の皆様のご協力をお願いするものである。なお、亀井事件の弁護団は脇山拓、村田浩治と私の3人である。
(民主法律時報261号・1993年1月)

1993/01/01