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過労死認定闘争 全港湾阪神支部(民主法律204号・1989年2月)

全港湾阪神支部

  マヤターミナル分会の組合員で、阪神電鉄青木駅近くの神戸フェリーターミナルにおいて、フェリーに乗船する車輌の誘導・整理業務に従事していた藤井昇(60歳)さんが、昭和63年1月6日、午前3時頃、神戸フェリーセンター内の仮眠室で、狭心症を発症し同年1月9日心筋梗塞で死亡しました。
  支部労職対は、マヤターミナル分会の要請を受けて労災認定闘争を組織することを確認し、早速マヤターミナル分会と神戸フェリーセンター分会の協力を得て、本件が発症に至るまでの本人の健康状態・労働条件・作業環境・作業実態等の掘り起こし作業を行い、①発症前である年末から年始にかけてのフェリー乗船車輌の増大による通常の業務量をはるかに上回る過重な業務、④寒冷下での休む暇も無く、立らづくめの24時間隔日勤務、④人員不足のため、同僚が休むと32時間の連続勤務が行われ、又、翌日は24時間勤務が行われると言う、目を覆うような過酷な実態を次ぎ次ぎと明らかにし、藤井さんの急死の原因は、実は、職場での過労であると確信を持って認定闘争を進めています。
  支部労職対は、この認定闘争を全港湾だけの戦いとせず運動の輪を大きく広げるために、大阪の過労死連絡会と一緒に運動を進める一万、NHKに働きかけ「突然の過労死・夫はなぜ・勤務調査を始めた企業戦士の妻たち」と、題してこの件を全国放映にこぎつけるなど世論に大きく訴えています。

  支部労職対の、この運動を通じて支部安全衛生委員会は、全組合員に、二度と同じ犠牲者を出きないためにも、経営優先になりがちで、そのために取り残されがちな職場環境の見直しと、過労死にならないよう健康を守る意識を職場に徹底して浸透させる事の緊急性と重要性を強く訴えるものです。
  この連動は、単に家族の救済のための取り組みというだけでなく、また病気を個人の私病としてでなく、職場の労働実態のゆがみのあらわれとして見直し、全ての職場で労働実態を点検し職場改善の出発点とする決意で取りくみたいと思います。

 ─神戸フェリーセンターの仲間の意見書─
〈神戸フェリーセンターでのマヤターミナル警備員の作業実態と環境〉
  フェリー乗船車輌を指示誘導し、整理券を交付するとともに駐車待機場所を指示し、所定の位置に駐車させるという、車輌の誘導、整理業務に従事していた。

◇勤務時間
  午前9時より、翌日午前9時までの24時間勤務であり、この間に、昼食、夕食のための各1時間の休憩時間、ならびに夜間4時間の仮眠時間があり、実働18時間である。

◇作業実態
  乗用車やトラック(台帳チェック)の予約照合と駐車位置への誘導(野外でのほぼ立ちづくめでの作業)。
  道路から釆た車輌はゲートで停車するが、長く停車させられず素早く的確な判断が要求される(動作が敏捷で対応がてきばきしていなければゲート作業がスムーズに行われない。緊張の連続が要求される)。
  予約車輌は先着順の車輌とは別に駐車させて積み残しが出ないようにする。
  先着順乗船のトラックに整理券番号票(乗船申し込み書)を手渡し、誘導・案内整理券発行を徹底。(整理券を車輌に渡す係を1名にして、番号順の狂い、渡し洩れがないようにする。このため長時間同じ作業になる。)
  車輌の種類によって分けて駐車させるための案内が必要。
  船社別に予約トラックがあり、優により台数が大巾に違う。
  予約車輌にも制限時間があり、予約便出航30分前までの到着は予約扱いをするが、それ以後にゲートに到着した車輌はキャンセル扱いとする決りはあるが、実際には10分前まで予約扱いにしているため、予約車輌の到着を時間一杯まで待つことになる。
  そのため予約なしの車輌に混ざらないよう特に気を使う。
  予約車輌は便別に並べるが、他の便の予約者が混ざると、間違って並んだ予約者が後の便であれば、車を抜き出す事が出来ないので予約便に乗船できず予約券の無効など責任問題も生じたりするので予約チェックは特に大事なゲート作業になる。
  予約乗用者は当便だけでなく、2~3便も後の革も来るので、駐車場内で各便ごとの整理をするのが乗船時の台数把握と間違いの起らないように、ゲートで、便・時刻記入のステッカーを一台ごとに車のワイパーにはさんで分ける。
  先着順乗船待ちのトラックで、早くきて駐車場内にいれて2~3便後に乗船する車輌があり、駐車場所の確保をして予定している優に乗船できるように、他の車と分けて整理する。
  フェリー一隻に乗船できる車輌台数は決っているので、先ず予約車輌を積んだ後の残りのスペースに先着順車輌を積むために、この順番が大変厳しくなる。

◇乗船可能台数チェック
  一隻に乗船出来る台数を駐車場内の乗船待ち車輌を換算台数で算出したり、直接数えて、何台着めるか乗船台数を予測し、整理券番号を出して、出札窓口に報告する。又、横付けによっては、予測が外れるので条件付発売の整理券番号を出して出札窓口に報告。条件付発売の整理券番号の車輌の運転手には、車輌積込中は、車内に留まってほしい旨案内する。
  事柄がゲートに到着した時点で、乗船便(可能便)を案内説明し駐車させるが、待ち時間が多いと車を離れる運転手が多く、予約者の未着や乗船可能の車輌でも運転手が不在を除いて、後の車をとりだす場合の難しさや、積んだ後に運転手が帰ってきて苦情をいわれ、その対応に苦慮する。駐車場の車輌は、車線ごとに並んでいて車間がわずかしかないので、前の車の運転手が不在であれば、後の車をだすのが難しく接触事故の原因になりやすい。

◇ゲートでは
  相手港の乗船設備や、相手港に到着(入港した)時間の潮高やフェリーの船内構造などで、車輌積載に制限があるので特殊車輌や積荷が荷台からはみ出した車輌などがゲートに来たときに、運賃計算のためや、フェリーに積載するさいの手順のために車長・車巾・車高を実測する。運転手には積載制限を説明する作業。

◇危険物積載車輌の誘導整理
  これらの車輌も予告なくゲートに来るのでゲートでのチェックを厳重にしなければならず、本船積載車輌制限により、積載方法があり、定められた駐車・整理・誘導により運転手に説明して待機してもらい、出札窓口や乗船口に連絡する作業。

◇4バース(高松航路)の特徴
  毎日15便が出航している。その間隔は、1時間30分から2時間で出航している。車輌の到着も24時間ひっきりなしにつづき、ゲートが閉じる事は一時もない(国道43号線の信号が変る度に連続して車輌が進入してくる。繁忙期には車輌が芦屋の近くまでできる)。
  このゲートは、国道43号線から進入して、始めのゲートになるため、他航路の道案内や、その他の案内をすることが非常に多い。(離れている中央突堤・淡路フェリー・阪九フェリー・ダイアモンドフェリー・甲子園フェリー・大阪南港フェリーや近隣の道路案内等もある)
  高松航路全便にトラックの予約があり、予約台数は夜間便が特に多く、フェリーの車輌甲板(トラック甲板)のスペースが予約車に多く取られ、残りが先着順の乗船になるため、予約なしのトラックは、特に夜間、待ら時間が長くなり、苦情の出る事が多い。
  先着順の順番チェックを厳しくしないと予約優に乗船できなかった車輌が出た場合、事後の処理の難しさや責任問題にもなるので、神経を使い緊張する。
  高松航路のトラック客は、四国ナンバーが多くフェリーセンターに到着したら、後はフェリーにトラックを乗り入れるだけで四国にいけるので、運転の疲れを癒すため食事などで飲酒も多く、酔ったドライバーに絡まれたりするので対応に緊張することが多い。

◇繁忙期(年末年始)
  繁忙期には、乗用車の台数が異常に多くなり(通常の約10倍)国道43号緩まで辛が並ぶ。乗用車の客はトラックの運転手とは違って不慣れなため一から対応しなければならない。また、船酔や病人の発生、その他様々な事がらについて、質問されたり、案内に追われるのがこの時期に多い(利用客は、窓口だけでなくゲートにひっきりなしにやってきて、質問や案内を要求するので、これらが他の作業と重なるので精神的にも肉体的にも非常に疲れる)。
  繁忙期には、乗用車の予約の台数が多くなり、乗用車甲板に積みきれない、予約者をトラック甲板に積むため通常期には行わない予約なしの乗用車とトラックを同じレーンに並べ整理券を出す。
  繁忙期には、業務の多忙から仮眠時間を減らしたり、仮眠を取らなかったりすることもある。
  4バース駐車場が満車になり、駐車スペースが無くなるか、無くなる恐れがあれば東待合所の北側にある予備駐車場に車輌を入れるが、このためにゲートの係員が整理券を持って4バースゲートから移動し駐車場入口を車線ごとに鉄柵を動かし、一車線が一杯になると鉄柵を動かし、次の車線に移るので、この駐車場が満杯になるまで案内・誘導・整理をつづける。車輌が跡切れても4バースのゲート小屋に戻ることもできないし、雨が降ったらトイレに行くことも(雨具の用意やトイレの交替)すぐにできない。
  いったん駐車場に並んだ予約なしの車が、待ち時間の長い事から乗船待ちを取やめて「出たい」と、言ってくる事があり、車線ごとに並んでいる車にはさまれているので、この事の周囲の車のドライバーが残っているかを確かめて、不在であれば呼び出し放送を行いドライバーに車に戻ってもらい移動して、先の乗船待ちを取りやめた車を引出して、その後に、文並べなおす面倒なこともある。
  繁忙期の作業量の増加に伴ってアルヾハイトなどが作業に就くが(其れでも4バースは一人)作業の不慣れや判断出来ない事などで、アルバイトに作業手順や注意等を教えたり、間違いのないように気をつけたり、処理できない事を変っておこなう事も頻繁にある。人員が増えても、作業量が減ったり一息つく等はできない状態にある。

◇仮眠所
  交替で仮眠をとる(4時間)がプレハブ棟の一室にあり、KFC作業員の仮眠所と同株にあるため、仮眠中も仮眠時間を異にする他の作業員が階段を昇降する足音や笑談する声がうるさい。
 (フェリーに乗・下船する車輌のエンジン音や振動がうるさい。
  大型車がキャッアイを踏む音と振動
  フェリーの巨大な汽笛や接岸時の音と振動
実際に眠れるのは1~2時間で眠りは断続的かつ浅い)。

◇寒冷下での屋外作業
  寒風の吹き曝しの岸壁での立ちずくめの、昼夜をわかたぬ作業。ゲート小屋には、石油ストープがあるが、仕事が忙しくて小屋に入れない。
  深夜は、特に冷え込んでいるので、いくら着込んでもしんまで冷える。
  一日の天気は一様でなく、衣服の調節や合羽や雨靴の脱着等を天候によっては何度も繰り返さなければならないが、車輌の切目が無いためそれができない。(トイレも同じ)
  六甲降ろしと呼ぶ強風が吹き非常に寒く体にこたえる。
  雨が降れば、合羽・雨靴で作業をするが、整理券を車輌の一台一台に渡すため、束になった紙の整仙埋券を一枚づつ取り出すのに手袋ではできなく素手で行う。トラックは運転席が高いため上を向いて手を伸ばすので手や顔や首筋に雨がかかり濡れる。それでも整理券の発行は続けるので手などから体温が奪われ感覚が無くなりシビレてくる。
  真夜中の2~3時ごろになると、寒さは足元から頭のききまで這い登り、体が凍るのではないかという感覚になる。
  たまに車輌が跡切れ、ゲート小屋に入って体を温めてもすぐには体は温まらず時間がかかる。車輌がゲートに来たら直ぐに車の所まで走らねばならず、このような時、温度差により気が遠くなりそうになる。

◇排気ガス
  走行している車輌と、ゲート内の車輌 (エンジンを切らないため)で、もうもうとした排気ガスのなかでの作業。

 ─奥さんの意見書─
  亡夫藤井昇は、摩耶ターミナル㈱に勤務し、青木のフェリーセンターで乗下船する革の整理、誘導の仕事に就いておりました。24時間勤務のため仕事あけには出来るだけ睡眠をとり、次の日に備えておりました。以前患ったことのある胃潰瘍の薬と降圧剤を常用していたものの日頃は元気に仕事に励み、たまに休暇をとって若いお仲間と旅行やキャソプに行ったりしておりました。3月になったら志摩の万へ旅行に行くのだと楽しそうに計画をたてておりましたのに、それも果すことが出来ず哀れでなりません。
  仕事柄、年末年始は易ノ忙をきわめ、かなり疲れていた様に感じました。普段は午前6時50分に家を出て、翌日の午前10時頃帰宅というリズムで働いておりました。
  元日の朝もいつも通り出掛けて、1月2日の朝に帰宅予定のところを超過勤務があり、午後6時頃帰宅して、新年になって始めて家族揃っておせち料理でお祝いをしましたが、とても疲れたからと言ってすぐに寝みました。しかし、疲労の色が濃く、床に就いてからもなかなか寝つかれない様子で、テレビをつけたり消したりしておりました。私が「夕べは寝つきが悪かったみたいね」と申しますと「疲れすぎると却って眠れないものだよ」と云っていました。いつも勤務あけは 「あーしんど一という事は云っても休息をして翌日はまた元気に出かけて行きましたが、今回はなかなか疲労が恢復しない様でした。1月3日朝出勤、そして4日朝帰宅した際にしんどいから7日に休みをとることにした、と申しました。1月5日の朝は6時過ぎに起きましたが、床の上にいつまでも座っているので「もう一日出たら7日には休めるから頑強ってね」と云って送り出しました。主人はあまり細かく話す方ではないので、疲労が限界にきてることも気ずかずに仕事に行かせたことが悔まれてなりません。人員が少ないのに朝になって急に仕事を交替してもらうのも悪いという気持が主人も私もありましたが、今思えば私が強引に休ませればもっと生きてもらえたのではないかと、誠に残念で申しわけなく思います。そして6日の午前3時頃に発作がおきたようでございます。
  本人が申しましたのは、仮眠中に気分が悪くなり、やっとの思いで手洗いに行きましたが恢復しないので再び横になりましたが胸苦しくて交替の時間を知らせる日覚時計のベルを止めることも出来なかった。あんなことは初めてだと話しました。いつも交替の時間に遅れることのない人が起きてこないので同僚の力が不審に思って仮眠室へ覗きに来られ、それから工藤循環器科へ搬送されました。
  明け方、私が病院へ駆けつけた時には検査宅で酸素吸入と点滴を受けて発作はおさまっているようでしたが、顔は土色であまり良い状態には見えませんでした。冬の最中、年末から忙しかったことと、2日の残業がこたえて、発作の引き金になったのではないかと、その時思いました。午前8時、工藤先生の診察を受け、強い狭心症という診断で治療が始まりました。本人が自宅近くへの転院を希望し、8日頃から症状が少し落付いてきたということで、9日に退院の許可が出たから迎えに来るようにと本人から電話がありました。それが主人との最後の会話になってしまいました。
  一度発作を起した身体では、今迄のような苛酷な仕事は無理であろうから退院しても、もう一度入院させてゆっくり静養してもらおうと考えながら午後2時30分頃病室に行きましたが本人の姿が見えませんでした。しばらく待ちましたが異常を感じて院内を探し、様式トイレの中で倒れているのを見つけました。助け出した時には既に亡くなっていたように思います。
  以上、発病から死亡に至るまで、私の知る限りの状況を報告いたします。
 昭和63年3月   藤井 婦喜子

(民主法律204号・1989年2月)

1989/02/01