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自殺過労死緊急シンポに参加して 弁護士 小橋るり(民主法律時報325号・1999年6月)

弁護士 小橋るり

 去る、6月18日(金)、大阪弁諸士会館において、シンポジウム過労自殺を考える──職場のストレス疾患をなくすために──が大阪過労死問題連絡会・大阪過労死を考える家族の会主催で行われました。

 急ぎの訴状起案を事務所でしていた為、シンポには30分後れで参加しました。会場は、用意された席が一杯になっており、その時の発言者である松丸弁護士の話を、皆さん熱心に聞いておられました。あとで聞いて得心したのですが、会場には、ご主人や娘さんを過労死でなくされた遺族の方も少なからず参加されており、一言一句、聞き漏らすまいとの思いが、この緊張感あふれる雰囲気を醸し出しているのでした。
 4名の発言者のお話は、それぞれが、緊迫感を伴うものでしたが、なかでも自殺過労死の事件である飯島事件の原告である飯島さんと、命の電話を30年来続けておられる西原さんのお話は、私を震撼させるものでした。

 飯島さんは、ご主人を亡くされて、当時1歳と3歳のお子さんをかかえ、残された親子が生活できるようにと、看護婦の資格を取得されることを決意し、看護学校へ通われながら、飯島事件を広く世間の人に知ってもらおうと署名を始められたとのこと。一口にここではさらりと書きましたが、いわゆる平凡な主婦だった飯島さんが、見知らぬ人に向かって署名集めをしたというのはそれは想像を絶するおおきな壁であったと思います。飯島さんが「林豊太郎弁護士に、『飯島さん、署名を集めま
しょう』といわれたとき、署名ってなんだろう、と当時思っていました。」の言葉に、この裁判がいかに飯島さんにとって、苦難であったかを物語っています。その飯島さんが、裁判の過程の中で、はじめは1万人の署名を集め、その次は3万、その次は5万、そして10万と集められたという報告を聞いていて、私は本当に胸が潰れる思いでした。ご主人さえ自殺過労死という形でなくならなければ、このような苦難を体験することたぶんなかったでしょう。お子さんたちが小学校のときの作文の中に、「お父さんを返してください。」というくだりもあり、このような思いを受け止めなければならない飯島さんは、2人のお子さんの父親役もこなさなければならなかったのですね。10年にわたる裁判で、体重が15キロもへってしまった、とやはりさらりとおっしゃっていましたが、本当に飯島さんのがんばりにただただ拍手するのみでした。

 命の電話の西原さんほ、私宅に、夜中突然電話がかかってきて、「今から死のうと思うので、最後に話しを開いてくださいませんか」という男性との90分にわたる会話の経験談をお話してくれました。誰も信頼できなくなったその男性は、絶望して死を選択するのですが、その話し方からして、何度も何度もその結論について考え抜いたとしか思えない筋道の立った、心静かなしゃべり方だったそうです。
 通常、西原さんは、心の電話にかかってくる自殺したい、死にたいという人に対しては、「いいえ、考え直しなさい」とはいわずに、その人のまさに命をかけた選択・結論を静かに抱きとめるという対応をするそうです。「ゆっくり、全部、聞いてあげること」が、その人の心を豊に平静にするのだそうです。
 先の話に戻りますが、その電話をかけてきた男性は、「全部、話を聞いてくれて有り難うございました。」といったそうです。それに対し、西原さんは、「こんな大事な話を、奥様になさらないでいいんですか?私でいいんですか?あなたは先ほどもうだれも信頼できなくなったとおっしゃっていましたが、こんな見も知らぬ私に、こんな大事なお話をなさろうとするのは、まだ人を信じょうとなさっているのではないですか?」といったそうです。この時、その男性は「ああ、そうですね。自分もまだ人を信じたいとどこかで望みを持っていたのですね。…もう少し、考えてみます(し」といって、電話をきったとのこと。
 西原さんは、命を大事にしないでいいような風潮の今の社会について、国のあり方について、心底、本当に怒っておられました。

 飯島さん、西原さんのお話を聞いて、私は、弁護士として、これから何ができるのかを考えつづけようと思いました。
(民主法律時報325号・1999年6月)

1999/06/01