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「職場におけるモラル・ハラスメントの法理」への試論 弁護士 影山博英(民主法律265号・2006年2月)

弁護士 影山博英

1 はじめに
 フランスの精神科医マリー=フランス・イルゴイエンヌは,職場におけるモラル・ハラスメントを次のように定義している*1。
 「職場におけるモラル・ハラスメントとは,不当な行為(身振り,言葉,態度,行動)を繰り返し,あるいは計画的に行うことによって,ある人の尊厳を傷つけ,心身に損傷を与え,その人の雇用を危険にさらすことである。」
 そして,モラル・ハラスメントを構成する個々の行為は「そのひとつひとつをとってみれば,それほど深刻なものだとは思われない。だが,それが繰り返し,頻繁に行われることによって,受ける方からすると小さな痛手が累積し,自殺や精神病に追い込まれるほどの大きな傷となる」のだという。
 モラル・ハラスメントがそのようなものであるとすると,その司法的救済の試みは厄介なことになる。なぜならモラル・ハラスメントの違法性を明らかにするためには,繰り返された「些細な出来事」の主張・立証をいくつも積み上げなければならないが,それは「些細な出来事」であるだけに客観的な証拠が存しないばかりか,具体的な日時・場所・態様の特定さえ困難であることが少なくないからである。さらに,よしんば具体的な事実を特定して主張・立証できたとしても,果たして「些細な出来事」の積み重ねをもって裁判所が想像力豊かに労働者が受けた被害の構造に思いを致し,不法行為その他の責任原因たり得るものと見てくれるか甚だ心許ないと言わざるをえない。
 すなわち,モラル・ハラスメント訴訟には,①事実の特定・立証にまつわる困難,②違法性の評価にまつわる困難が大きな障害として立ちはだかる。

2 被侵害利益は何か
(1) 職場環境配慮義務~セクハラ訴訟の成果
 今日,職場におけるいじめ・嫌がらせを問う訴訟の多くで,責任原因として「職場環境配慮義務違反」ないし「職場環境整備義務違反」が掲げられる*2。
職場環境配慮(または整備)義務(以下,単に「職場環境配慮義務」という。)は,一連のセクハラ訴訟において提唱され,複数の裁判例が採用してきた概念であり,今日では「既に定着した考え方」とされる*3。
 たとえば,福岡セクハラ事件の判決*4では,使用者は「労務遂行に関連して被用者の人格的尊厳を侵しその労務提供に重大な支障を来す事由が発生することを防ぎ,又はこれに適切に対処して,職場が被用者にとって働きやすい環境を保つよう配慮する注意義務」を負うものと述べている。
 もとより,直接加害者の行為が不法行為を構成する場合,使用者の責任を問うために職場環境配慮義務を持ち出すことが常に必要となるわけではない。使用者責任(民法715条)を問えば足りることも少なくない。それゆえ,職場環境配慮義務の独自の意義は,使用者の行為規範を具体化することにこそあるとも言われる*5。
 しかし,使用者責任構成では不法行為が「事業の執行について」行われたことが要件となるため,当該不法行為が職務とは直接の関係なく行われたときには裁判所が使用者を免責させてしまうおそれがある。また,個々の不法行為から3年で時効が成立するという問題もある。
 したがって,「職場環境配慮義務」の訴訟実務上の意義も決して小さくないのであって,職場におけるモラル・ハラスメントを法廷に持ち込む場合にも,さしあたりこの概念を寄る辺にすべきものと思われる。

(2) 被侵害利益の修正~人格権から職場環境享受利益へ
 それでは,職場環境配慮義務違反構成の採用は,前述のモラル・ハラスメント訴訟の困難について,何らかの打開策をもたらすであろうか。
 職場環境配慮義務違反構成を取る場合,ハラスメントを構成する個々の行為は,使用者の負う抽象的な職場環境配慮義務に基づいて具体的な是正措置義務を発生させる根拠となる事実として位置付けられる。ハラスメントの事実を知りうべきであるのに適切な是正措置を採らなかったことが使用者の債務不履行となるのである。
 ここで,具体的な是正措置義務を発生させる根拠となる事実が,それ自体,従来から不法行為と評価されてきたもの(暴行,名誉毀損等)でなければならないとすれば,困難は何ら緩和されない。
 しかし,職場環境配慮義務が前掲福岡地裁判決のいうように「被用者にとって働きやすい環境を保つよう配慮する義務」であるとすれば,その具体的な発動が伝統的な不法行為類型に該当する行為が行われた場合に限られると解することに合理性はない。「環境」は諸行為の累積によって形成されるものであって,個々の行為の影響を単独に判断することは適切でないからである。その累積によって労働者の「人格的尊厳を侵しその労務の提供に重大な支障を来す」ものである限り,職場環境を悪化させる行為一般が対象となると解すべきである。
 たとえば,公然と特定の労働者を名指しして非難・罵倒する行為は,名指しされた労働者以外の労働者にとって不法行為を構成するものとは容易に認められまい。しかし,それは,「いつ自分が同じ目に遭うかもしれない。」という恐怖や,同僚の被害を座視しなければならない無力感・屈辱感を与えるという意味で他の労働者の人格的尊厳を傷つけるものであることは確かである。かかる行為が繰り返されるならば,職場は言葉の暴力によって支配される巷と化してしまうのであって,職場環境を著しく悪化させる行為といえる。したがって,直ちに不法行為を構成する行為ではなくとも,他の事実と相まって職場環境配慮義務の具体的発動を促す根拠となる場合があることを肯定すべきであると思われる。
 もっとも,このような見解に立つときは,「良好な職場環境」に,名誉や身体の安全といった伝統的な人格的利益に収斂されない独自の価値を認めることに帰着するが,そのような解釈は,現行法上可能であろうか。
 この点,内田正幸教授の次の叙述が,憲法解釈上,職場環境享受利益を,伝統的な人格的利益に収斂されない独自の法益として把握する可能性を示唆している。
 「憲法27条1項の勤労権条項は,使用者に雇い入れを求める権利を含まないが,一旦成立した雇用関係を良好なものとして維持するよう使用者に求める権利(以下,便宜上,雇用維持権という)を含むものとして解釈すべきであろう。・・・雇用維持権は,27条1項を13条前段の趣旨に照らして解釈すると,人間の尊厳にふさわしい雇用関係を維持する権利として捉えうるものとなる。」*6
 以上の次第で,職場環境配慮義務論の活用は,前記②の困難を克服するためのひとつの道筋を示しているように思われる。

3 主張・立証責任の軽減
(1) 職場環境配慮義務構成の意義
 では,前記①の困難については,いかなる方策がありうるだろうか。
 ここでも,職場環境配慮義務違反構成を採ることが,幾ばくかは救済につながるかもしれない。同構成の下では,個々のハラスメント行為は,それ自体が不法行為を構成する事実ではなく,他の諸行為とあいまって職場環境配慮義務の具体的発動を促す事情と位置付けられることからすれば,事実の特定・立証のいずれについても事実上ハードルが低くなることが考えられるからである。

(2) モラル・ハラスメントの特殊性の認識
 しかし,より根本的には,モラル・ハラスメントの構造を説き,その特殊性について理解を得ることが肝要であると思われる。
 この点で,誠昇会北本共済病院(いじめ自殺)事件判決*7が興味深い。
 判決が「いじめ行為」として認定した事実の中には,加害者が同人の「肩もみをさせた」「家の掃除をさせた」「車を洗車させた」「長男の世話をさせた」「風俗店へ行く際の送迎をさせた」「開店前のパチンコ屋で順番待ちをさせた」(被害者が)「仕事でミスをしたとき,乱暴な言葉を使ったり,手を出したりすることがあった」など,日時・場所が特定されていない事実が多数含まれている。証拠の詳細は不明であるが,掲載された判決文から窺える限りでは,恋人・同僚・母の伝聞供述が主要な証拠であった模様である。
 単発的な不法行為であれば,日時・場所・態様の特定に困難を伴わないことが多いであろうし,逆に,これらの特定が不充分であれば被告の防御に支障を生じる。
 しかし,モラル・ハラスメント事案においては,上述のとおり,行為の反復性と軽微性に特色を有するから,ひとつひとつの行為について事実関係の詳細を特定することには著しい困難が伴う。他方,被告にとっては,他に事実関係の詳細が特定されている行為があって,その行為の存在ないし,そのモラル・ハラスメント的関係に基づく意味について反証することが可能であれば,同様にモラル・ハラスメント的関係を前提とする諸行為の存在ないし,それらの行為が持つとされるモラル・ハラスメント的意味についても不存在の推認を得ることに大きな支障はないはずである。
 したがって,事案の特殊性を鑑みれば,モラル・ハラスメントを構成する事実の全てについて,詳細な事実関係の特定を要求する必要はないし,すべきではない。モラル・ハラスメントを構成する諸事実のうち枢要な部分については詳細を特定し,立証することが必要であるとしても,周辺的な諸事実については,概括的な特定で足り,立証の程度についても,たとえば外形的事実の証明によって,そのモラル・ハラスメント的意味についても推定されるものと扱うことなどにより,負担の軽減が図られることが相当であると言えるのではなかろうか。
 モラル・ハラスメントについて,詳細な事実関係の特定と,単発の不法行為と同様な立証を要求することは,すなわち司法的救済の拒絶を意味しかねない。このことを強く訴えていく必要があろう。

(民主法律265号・2006年2月)

2006/02/01