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過労死問題を振り返る 労働者の闘いへの期待  大阪過労死問題連絡会 会長 田尻 俊一郎(大阪職対連「労働と健康」第175号・2003年1月)

大阪過労死問題連絡会
会長  田尻 俊一郎

1.過労死問題の拡がりと前進
 先日思わぬお方からお便りをいただいた.和歌山民医連のM医師からだ.今から7年も前の95年5月,「過労死問題でのご助言ありがとうございました」とあった.この先生のお名前も定かには記憶していないし,怠け者のぼくは記録も取っていなくて.どのような事例であったかもはっきりとは覚えていない.お便りの文面から,過労死の事例で,監督署で業務外の認定を受け,これを不服として裁判で争っていたケースのことらしいとわかった.長い闘いの中で行政側はいわゆる「その道の権威者」をたてて,「強大な国家権力」(M医師)をバックに遺族の訴えを抹殺しようとしていたのだった.しかし,01年12月に「新認定基準」が出るにおよび,当局は一方的に「年金など」を振り込んできて,訴訟は取り下げとなったというのだ.つまりは勝利的和解というのだろう.何ほどのことをしたわけでもないのに,律儀にもそのお礼状を下さったのだった.
 この報せを聞き,過労死問題の運動の前進と拡がりによって認定基準も改訂され,このような形で,より多くの方々を救済することができているのを今更のように知った.長くこの問題に携わってきて,苦労も少なくはなかったが,それも報われたとの思いを味わっている.だが考えてみるとこの事例,被災者が亡くなったのが90年2月,認定申請が翌91年の2月,やっとのことで過労死を認められたのが最近という,10年を超える長い時間の経過に,遺された方々の心に思いをいたすと,「不条理」という言葉を思い浮かべずにはおられない.当局は当然救済されるべき事例をこれほどにまで長引かせたことの責任をとる訳でもなく,お金さえ支払えば文句はあるまい,とでもいうような処理の仕方だ.何とも言い難い怒りをさえ覚える.これほどまでの遷延に当局からの謝罪はもちろんない.働くものの当然の権利がこんなに時間と労力を費やさねば守られないのか,とため息が出る思いである.
 このような事例は筆者自身,ほかにも経験しているし,全国でも,裁判中に「新認定基準」が適用されて,訴訟が取り下げられたケースだけでも7例とか聞いている.これはとりもなおさず,大阪連絡会が火をつけた88年の過労死110番活動の全国的展開以来,被災者・遺族・労働者を中心にした,弁護士や医療集団がこれを支えての闘いの成果であることはいうまでもない.

2.元気だった70年代とそれ以後
 わたしが過労死問題の取り組みを始めたのは60年代の終わりであったが,この課題がこれからの労働者の「いのちと健康」を巡っての最重要課題だと認識して本格的な活動を展開するに至ったのは,70年代に入ってからであった.おおざっぱだが手元の記録1)でみると,70年代には意見書を書いたので確認できる認定ケースは14例に上っている.そこでは特別な事情のあったケースを除けば,ほぼ100%が認定されるという驚異的な認定率を示している.当時の認定基準「昭和36年基発第116号通達」にこだわらず(というよりもこれを敢えて無視して),「疑わしきは救済しろ」という主張がまかり通った「元気のいい時代」であった.だがその後は,運動は少しずつ拡がってはいたものの,政府側の「防衛体制」が整備されるにつれて,次第に認定も困難になってきた.このような状況に何とか対応しようとして作られたのが大阪急性死等認定連絡会であった.それが81年7月のことで,25労組を中心に,弁護士.医師ら55人が結集して結成総会をもっている.
 これに先立つ79年の末,ある雑誌の「80年代の労働衛生」の特集記事2)に,わたしは「労働の半生理化からの克服」と題した一文を寄せている.
 ここでは約10年間の過労死問題への取り組みを通じて学んだこととして,60年代から始まる科学技術の進歩をテコにした「合理化」の大波は,「機械化」「自動化」「コンピュータ化」へと進み,労働現場に大きな変容をもたらした.それに伴って労働負担の質も変化して「重い軽作業」と呼ばれるものが一般化し普遍化してきた.その結果は,従来とは異なった性質の疲労,精神神経性要因の強い,そして強い蓄積傾向をもつ疲労をもたらすこととなった.さらに労働人口の高齢化も加わり,職業性健康障害の現れ方も多様となり,その延長線上に起こってくる「急性死」(まだ過労死という言葉は使っていない),さらには「こころの病」も,労働者の健康を論ずる上で一層重要な課題となるだろうと述べている.そしてまた,73年のオイルショックを契機に“なりふり構わぬ「合理化」”は一層そのスピードを速め,さらに「低成長期」を迎えて,深刻さの度合いは強まってきている,とも指摘している.
 不幸なことに,このわたしの観測は正しかったようで,「リストラ」(かつての「合理化」に取って代わった言葉となった)が「社会正義」とでもいうようになった今日,過労死のみならず過労自殺も加わって,その速度を緩めることなく依然として増え続けている.厚労省の発表によっても,昨年(01年)の過労死認定申請数(政府は長く「過労死」という言葉を使うことを拒み存在を否定してきたが,いまでは使うようになった!)は,690件,認定数は143件,こころの病では,申請数269件.認定数74件,過労自殺の申請数212件,認定数31件と激増し,その深刻さを物語っている.

3.闘いの全国規模での展開
 大方がご存じのように,過労死なる言葉が社会的に認知されたのは,88年の認定基準改訂をうけて,その年の4月に催した大阪連絡会のシンポジウム以後のとしてよいだろう.このシンポは当事者のわれわれが予想もしなかったような大きな反響をよんだ.細川・上畑・田尻の3人が「過労死」と題した本を出版し,社会的な提起をしてから3年が経っていた.これを契機に,「過労死110番」活動が大阪から全国規模に拡がり,全国に過労死弁護団も結成され持続的な活動を始めた.また国際的な反響も大きく,「KAROSHI」という言葉が,はじめは「労働による過労が原因として起こった死」などの注釈がつけられていたのが,何の注釈なしに通用する状況が程なく生まれるてくる.11月に過労死問題を報じたアメリカの新聞Chicago Tribune紙の「Japanese live …and die… for their work(日本人,仕事のために生き,仕事のために死す)」の表題はその本質を衝いたものとして,われわれに強いインパクトを与えたのだった.
 われわれの連絡会は結成の81年直後から急性死電話相談活動をはじめ,その年にすでに15件の相談を受けていたのだったが,現在の110番活動の全国的な拡がりを見ると,この提起が社会的に深刻に受け止められ,国際的にも問題となってきたことに,複雑な思いを味わっている.その後90年末には「過労死を考える家族の会」も結成され,ねばり強い活動がいまに続いている.
 このような運動の発展は,政府に認定基準の改訂を迫り,87年の改訂以後も,95年,01年と続いて改訂され,蓄積疲労をもふくめての認定を可能とする改善を勝ち取っている.また過労による自殺,取り分け働き盛りの自殺の増加が社会的にも注目されるようになって,業務上としての認定申請も過労死弁護団を中心に行われるようになり,申請数,認定数ともに増加の一途をたどり,99年には,(まだ十分だとは言えないが)過労自殺の認定基準(心理的負荷による精神障害に関わる認定基準)も出されることとなった.

4.労働組合に期待する
 いま景気の低迷,不況,デフレの懸念が叫ばれて,「リストラ」こそがこの国の立ち直りのすべてとでもいうような,あらゆる責任と犠牲を労働者に押しつける政策がまかり通っている.政府は声高に「労働時間管理」をいい,長時間労働に制限を,と格好をつけているものの,実状はそれほどに生やさしいものではない.いっこうに改善されそうにない失業率は,労働現場に重苦しい雰囲気をもたらし,どのような過重労働にも声を上げずに耐えることを強制している.手当を支払われないサービス残業は日常だし,能率主義・能力主義はますます労働者を締め付けている.このように深刻な労働実態が過労死を温存し,過労自殺を増加させる条件となっていることはいうまでもない.
 過労死問題をその根っこから改善しようと,学者.・弁護士が呼びかけて「労基オンブズマン」も発足した.しかしながら,過労死問題の社会的,国際的な反響の割には,労働者側の「組織的」取り組みは強くないように思われてならない.110番で持ち込まれる事例の中に,「主人が,子供が,過労死するほどに働かされている.心配だ.どうしたらいいか」などという相談が毎回のようにある.職場の厳しさを訴えられても,弁護士や医師に何ができるだろうか.過労死を来すような労働条件を改善し,人間らしい労働を求めるのは,それこそ労働組合の本来的な任務ではないのか.その労組にこそ過労死予防の相談はされるべきだと思うのだが,実状は思うに任せないというのであろう.
 過労死問題は,取り分けその予防という側面で,すぐれて労働者自身が,労働組合が,自らを守る闘いとして取り組むべき課題であって,弁護士や医師,あるいは遺族の問題ではないとの思いが,伏流化しながらもなお増え続ける過労死や過労自殺の実状を見ると,ますます強まっている.

(大阪職対連「労働と健康」第175号・2003年1月)

2003/01/01