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過労死の労災認定でサービス残業についても残業手当を認め、遺族年金の額を定めた労基署長決定 弁護士 有村とく子

弁護士 有村とく子

一 羽曳野労基署長の支給決定
  大阪府松原市内のプラスチック製品の成形加工会社で営業担当等の業務に従事していたMさん(当時五三歳)の急性心臓死につき、二〇〇〇年一〇月一二日羽曳野労働基準監督署長は、業務上と判断して遺族補償給付の支給を行った。申請から七か月足らずの決定である。特筆すべきは、サービス残業となっていた残業分についても、遺族年金等の支給の基礎額(給付基礎日額)として参入された点である。これは、全国で初めてのケースであり、過労死の労災認定につき遺族救済をさらに押し進めた画期的な決定といえる。

二 発症状況と労災申請に至る経緯
  Mさんは、一九九九年四月二一日午前五時頃、自宅の書斎兼寝室で、急性心臓死により発症後短時間で死亡した。妻のKさんは、誠実で仕事熱心だった夫が会社再建のため身を粉にして働いたこと、その途上で命まで落とした無念さを思い、過労死の労災申請を行うこと、会社に対しても民事の損害賠償を起こすことを決意した。
  会社が倒産する前の一九九九年一一月、松丸弁護士と私は会社に行き、社長と専務から聞き取りをした。会社側の反応は、Mさんの働きぶりについて、非常に熱心でよく働いていたことは認めながらも、このような忙しさは業界ではさして珍しくないとか、前の勤務先の方が忙しかったはずだとか、Mさんは自分が好きで残業していたのだとか、その死がまるで会社の関知するところではなく、むしろ家庭に問題があったかのような口振りで、会社の仕事に殉じた従業員に対する言葉とは思えないような冷たいものであった。
  弁護団は、会社の従業員や前の職場の同僚からMさんの業務内容や長時間労働の実態につき聞き取りを行い、Mさんのタイムカードから労働時間を割り出す作業等労災申請や民事裁判のための準備を進めていった。ところが、会社はMさん亡きあとの二〇〇〇年一月に倒産し、大阪地裁に破産申立をしたため、民事裁判で会社の責任を追及することはできなくなった。そこで、二〇〇〇年三月二二日、羽曳野労基署へ労災申請を行った。

三 被災者の業務実態
  プラスチック加工業界での製造・品質管理・営業等業務全般についての豊富な経験をかわれたMさんは、一九九八年一月より大阪府松原市内にあるプラスチック射出成形組立を行とするこの会社に勤務するようになった。当時より会社は受注・売り上げが落ち込み、工場の製造機械の稼働率が落ち、経営危機に陥っていた。
  とりわけ営業面を強化して受注売り上げを増やすことが急務となっており、Mさんは営業を中心にしつつも製造部門の責任者を兼任した。また当時社長が病弱で事実上経営に参与することが不可能な状態であり、その事実上の代行者となっていた妻(専務)の相談役として、経営全般にわたる相談役にもなっていた。   会社にはMさんの入社前から営業担当者(次長)がいたが、この次長は自分の担当の得意先への営業が終わると仕事を終えており、残業や休日労働は少なかった。これに対しMさんはこの次長の一・五倍の実労働時間働き、所定外労働時間は次長の三倍を超えるほどの長時間労働に従事していた。不況下で同業者間の厳しい競争のなか、Mさんは会社の経営危機を乗り越えるために自らうち立てた受注獲得目標達成のため、鋭意努力していた。長年この業界で築きあげた人脈と、足繁く新規の得意先目標となる企業に通ってその信頼を得るという営業活動によって、新規顧客や新規受注を得てきたのである。
  Mさんの仕事内容は、営業日報の記載から明らかなように、得意先からプラスチック加工の注文を取ることにとどまらなかった。製品単価の見積計算、製品の価格交渉、金型の制作、試作立ち会い、トラブルや試作トラブルの対策を練り、工場の機械の稼働状況に照らして納期を決め、会社の資金繰りみながら代金の支払い条件の交渉を行っていた。また、製造部門の責任者でもあったMさんは、工場が二組二交替での二四時間操業体制であったため、多忙であったり人手が足りないときは製造現場に入って生産にあたることも度々あり、車で営業に出かけるついでに小口の製品の配送を自ら申し出て手伝うなど、部下の従業員に対する配慮もし、従業員の信頼を得ていた。   また、Mさんは会社の営業車をつかって得意先等をまわっていた。この営業車のガソリン給油量を会社に聴き取りに行った際メモしたものをもとに出勤一日あたりの走行距離を割り出すと、一〇二キロメートルにものぼった。この数字は、運輸省の自動車輸送統計年報(平成八年度版)によれば業務に使用されている自家用乗用車の実働一日一車あたりの走行距離の二・五倍になる。得意先が会社の比較的近いところに点在していることからすれば、Mさんは日々営業車で得意先をあちらこちらこまめに回って営業活動をしていたことが推認された。   さらにこのように過密な長時間労働を終えて帰宅した後も、遅い夕食や入浴をすませ、自室で営業日報や製品・金型製造の見積書等の作成する作業をほぼ毎夜行ってきた。

四 常軌を逸する長時間労働
  タイムレコーダーから明らかとなった、一九九八年五月から亡くなった一九九九年四月までのMさんの年間総実労働時間は、約三六〇〇時間(製造業の労働者平均の一・九六倍)、所定外労働時間は一六八二時間であり、製造業の労働者平均の一一・四四倍もの時間数であった。とりわけ発症前三か月間についてみると、実労働時間が平成一一年度二月度で三〇三時間三九分(所定労働時間は一六四時間三〇分)、三月度で二九〇時間四七分(所定労働時間は一五七時間三〇分)、四月度で三〇五時間三六分(所定労働時間は一五〇時間三〇分)となっており、所定内労働時間の実に二倍前後という常軌を逸した長時間労働であった。   労災申請にあたって提出した意見書には、この三か月間の労働時間につき、・月ごとにタイムカードに記載された日付・出社時刻・退社時刻・所定内労働時間を挙げ、そこから「拘束労働時間」、「実労働時間」、「所定外労働時間」をそれぞれ計算して表にしたものと、・その表をもとに毎日の所定内労働時間と実労働時間の対比を示したグラフ(時間外労働がいかにすごいものであったかを視覚に訴えるため)、そして、・Mさんの入社した一九九八年一月から亡くなる一九九九年四月までの月別の、総実労働時間・、所定内労働時間・、所定外労働時間・、・と・の比率、・と労働省毎月勤労統計平均所定内労働時間の比率、・と統計平均所定外労働時間の比率を割り出して一覧表にしたものを添付した。   Mさんの所定外労働時間は、毎月勤労統計にもとづく平均所定外労働時間と比べると一〇倍以上であり、死亡する直前の一か月についてはほぼ一三倍となっており、Mさんの業務が「特に過重」であったことは同僚との比較無くしても明らかであった。   そして、労災申請後、松丸弁護士が会社の破産管財人からMさんと同種の営業職に従事していた前述の次長のタイムレコーダー等の資料を借り受け、第二弾の意見書(二〇〇〇年五月一九日提出)において、Mさんの業務の過重性が前記次長の労働時間と比較するとより鮮明になることを明らかにした。

五 サービス残業分が遺族年金の算定基礎に
  Mさんは、この会社に就職当初から毎月およそ一五〇時間の所定外労働を行っていた。しかし、六〇時間を超える残業分については、会社から残業手当が支払われない、いわゆるサービス残業となっていた。これまでの取扱いでは、実際に支給されていた賃金の額を基準として年金が支給されており、サービス残業分まで含めた決定はなかったようである。   しかし、サービス残業についても、賃金は当然支給されるべきであるから、遺族補償年金の算定にあたっては、この分も考慮されなければならないはずであった。
  そこで弁護団は二〇〇〇年八月九日、Mさんの時間外・休日・深夜労働についての割増賃金額を加えた給付基礎日額を算出した上申書を提出した。その結果、労基署長の認定した基礎日額は、サービス残業分を含んで計算された一八、五二八円とされ、実際の賃金支給額を基準としたときの基礎日額に比べて三四パーセント増となった。
  サービス残業そのものがなくなり、「過労死」をもはや「死語やな。」と言える日が来なければならない。ともあれ今回の決定は、被災者遺族の救済という点では前進といえよう。この決定を機に、今後は基礎日額算定の際、サービス残業分がきちんと加えられるように労基署に働きかけをしていきたい。      (本件の弁護団は松丸正、有村の二名)

2000/01/01