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京都地裁96年9月11日 過労死田井事件勝利について 弁護士 池田直樹(民主法律時報296号・1996年11月)

弁護士 池田直樹

 田井氏は京都を本社とする精密機械メーカーの新設の鳥取営業所長であったが、昭和60年6月4日、京都本社から車で営業所に帰る途中、急死。まだ31才で妻と9カ月の娘さんが残された。
 被災者の業務の特徴は、まず出張が多いこと。しかも鳥取の交通の不便さゆえに社有車を使っての運転か多かった。裁判所の認定では、出張日数ほ直前3カ月で60日あまりにのばり、発症前一週間の運転距離数は779キロにもなる。
 第二に、IC製品という精密な部品を扱う業務の性質上、品質や納期に関しては取引先から厳しい要求かあり、品質や納品遅れに対するクレーム処埋というストレスの強い業務だったことかある。実際、亡くなる1カ月ほど前には納期遅れを少しでも緩和するため、一週間で高松鳥取間を車で3往復しているが、うち2回は午前2時に高松の取引先工場に到着し、製品を引き取って、すぐ米子へ向かうという徹夜の業務であった。さらに、亡くなる4日前にも、京都本社につめて営業所長としては異例ながら、ラインに入って午前1時すぎまで選別梱包作業を手伝うなどして、取引先の要求する納期や品質を守るため懸命の業務を行っていたのである。
 第三に右のような業務形態ゆえに、労働時間も長時間となる。裁判所の認定でも発症前再週間の拘束時間は86時間を越えている。休日出勤も状態化し、発症前は28日間連続勤務だった。
 第四に疲労の回復条件が著しく悪かった。被災者は発症直前の出張ではカプセルホテルで宿泊していた。また、社有車で京都本社に出張しない場合は夜行の寝台列車を使っていた。

 以上のような労働実態に照らせば、そもそも労基署や審査官、審査会が業務外としたこと自体がきわめて問題だった。その原因は第一に、認定基準の問題があり、第二に、業務の過重性の評価に対する考え方そのものの変化がある。
 まず、本件で最初の昭和61年不支給決定は昭和36年基準、すなわち災害主義に基づいた決定かくだされている。担当官は「死亡労働者の業務内容により心身への過重は認められ、一般的には「疲労の蓄積」の状態にあった」とまで述べながら、発症当日、前日、前々日の業務で特に災害ないしそれに準じる強度の肉体的精神的負担はないとして、業務外の決定を行った。
 次の昭和62年の審査官決定は、認定基準の改訂後2カ月後の決定だったが、旧認定基準で決定されている。特徴的なのは、被災者の前述したような業務の過重性について、「通常いわゆる営業マン(の業務)と大差ない」として切り捨てたことである。また、一定程度の負担があるとしても、「これら業務は被災者が相当以前から従事してきた本来の業務である」として 「従前業務」との比較によって過重性を否定した。
 さらに平成4年の審査会裁決は、62年基準のもと「拘束時間が長かったとしても1日平均12時間38分であり、特に過重な業務ではない」とし、出張過多の主張についても「出張には慣れていた」 「列車利用の出張は特に疲労は大きくない」などとして過重性を否定した。

 以上の行政認定に対して、右京都地裁判決ほ、第一に行政の認定基準にはとらわれず、いわゆる相対的有力原因説をとりつつ「虚血性心疾患等の発症について、当該業務が発症の原因となったことが否定できない場合において、他に虚血性心疾患等を発症させる有力な原因があったという事実が確定されない場合には、虚血性心疾患等の発症と業務との相当因果関係の存在を肯定することができるものと解するのか相当である。」と判示した。
 第二に、過重性の評価については、判決は、被災者の業務は「長時間・不規則・出張の多い過重な業務だった上、クレーム処理や納期管理による継続的な心理的ストレスも加わった過重負荷であったと認めるのが相当である。これに京都本社から鳥取営業所への自動車運転が直接の引き金として加わった」ものと結論付けた。
 誰がみても、裁判所の判断が世間の常識にかなうものと考えられようが、やはり常識が常識として通るようになった背景には、87年に始まった過労死110番運動を契機に、過労死救済の世論が急速に盛り上がり普及したことが大きいと考える。同時に、本人も周囲ももともと長時間労働しているのだから、特に過重とはいえないというゆがんだ考えから、時間外労働や休日出勤が続くこと自体が異常なのだという評価に変わってきたのである。
 本件では、死因も問題となったが、医学的立証ともども松本久医師に非常にお世話になった。また、10年も前のケースにもかかわらず、当時の部下の女性が証言台に立って時間を感じさせない生々しい証言をしてくれた。同時に、当初の調査を行った労基署や会社がかなり詳細な調査を行っていたことも業務内容の理解に役だった。

 妻彦子さんは夫の死は営業所長としての激務が原因だとして、生後九か月の娘さんをかかえながら、ただ一人労災申請に立ち上がった。しかし、監督署、審査請求ともに棄却され、迷ったあげくに再審査請求を出した直後の昭和63年、大阪で始まった過労死110番に相談された。鳥取から私の事務所まで3才の娘さんを連れてこられた彼女の自筆で切々と善かれた申請書を読み、何とかこれをひっくりかえしたい、そう思った日のことを私は鮮明に覚えている。その娘さんも来春中学生。「お母さんが途中で倒れたら私が裁判を引き継ぐから」と言っていたが、判決は控訴されることなく確定した。
(弁護団 松丸 正、西  晃、脇山 拓、池田直樹)
(民主法律296号・1996年11月)

1996/11/01