過労死問題について知る

HOME > 過労死問題について知る > 勝利事例・取り組み等の紹介 > 新田過労死事件ついに業務上と認定 弁護士 日高清司(民主法律時報277号・199...

新田過労死事件ついに業務上と認定 弁護士 日高清司(民主法律時報277号・1994年10月)

弁護士 日高清司

 故新田勇さんの労災が、申請後約6年、死亡後8年を経過した本年8月5日に、大阪労働者災害補償保険審査官によりやっと業務上として認定された。事案の概要、認定に至るまでの経緯を報告する。

(1) 労災申請の経過
 新田勇さんは、電車の電線を布設するY電設株式会社で、工事現場作業所長、電気工事技術者として現場での監督業務を行なっていたが、1986(昭和61)年9月21日(日)午後9時35分頃、深夜作業に出かける直前、自宅で死亡(急性心不全、当時42歳)した。
 妻の笑子さんは1988(昭和63)年8月23日に、大阪中央労働基準監督署に労災申請したが、1989(平成元)年5月9日不支給決定が下され、同年7月7日に審査請求を申立てていた。

(2) 業務内容
 新田さんは昭和43年10月にY電設入社以来電路部に所属し、電車線架設工事の業務に携わっていた。昭和56年7月から課長代理となり工事現場作業所長として、担当工事に関わる施主との打ち合せ、作業計画の立案、昼間及び夜間の工事現場での作業の指揮監督、騒音についての地元への説明など、電車線設備工事に関係するあらゆる業務を一人で処理しなければならな
かった。
 現場作業は事前準備、事後整理を含め午後10時から午前6時頃まで(終電後始発までの間)の夜間作業が中心で、しかも、工事現場作業所長として各種打合せ、図面・書類の作成等の昼間の業務も当然こなさなければならず、夜間業務と昼間の業務が入り交じり、あるいは連続する非常に変則的な勤務形態であった。
 新田さんは昭和61年5月以降は、3カ所の工事現場を同時に担当し、業務量が増大した。しかも、期限内に工事を完了しなければならなかったため深夜勤務も月、水、金、日の週四日にも及んでいた。特に被災直前に天候不順が続き、残工事量からして通常は行なわない雨中の夜間工事も無理して遂行しなければならなかった。
 発症2日前の9月19日(金)は昼間に現場での作業を行ない枚方の詰所で仮眠の後、午後10時から翌朝(20日土曜日)の午前6時まで、深夜の作業に従事した。当夜作業開始前、小雨が降っていたが工事日程の都合上作業を開始したところ、途中で土砂降りとなり、雨具を着る間もなくずぶ濡れになりながら作業を行なった。深夜作業終了後、午前6時から8時頃まで詰所で仮眠を取った後、さらに当日の午前8時30分から午後5時30分頃まで詰所内で工事の施工図面の作成、工程検討等の業務を行なっていた。
 以上の様な変則かつ長時間労働の結果、被災前1カ月間(8月21日~9月20日の31日間)の総労働時間は393・5時間、うち深夜勤務時間は126時間にも及んだ。

(3) 審査請求段階での取り組み
 労基署担当者の口頭での説明によると、不支給決定理由は、「請求人主張のような不眠の長時間労働ができるはずがない。現場での監督とは言え、どこかで睡眠を取っていたにちがいない。」というものであった。
 審査請求段階では、申請代理人として高橋典明弁護士に加え、4人の弁護士が参加し、①現有資料(会社の労基署への報告書、新田氏作成の工事日報、運転日報等) の再検討、②下請、同僚、同種業務労働者等への事情聴取、③通勤ルート、通勤時間の車での走行確認など、新田さんの勤務実態を再度調査した。
 さらに、新田さんの長時間過密労働と急性心不全による死亡との関係に関し、前原直樹医学博士(財団法人労働科学研究所、労働生理・心理学研究部第一研究室長)による医学的見地からの意見書を審査官に提出した。
 その他、大阪過労死問題連絡会や大阪過労死を考える家族の会、大阪労災職業病対策連絡会、化学一般、全港湾阪神支部など労働組合の支援も得て「故新田勇さんの過労死の労災認定を支援する会」が発足し、1万1111名もの署名を集めた。

(4) 評価
 本事案は、近年ますます行政段階での過労死認定が厳しくなっているなかでの数少ない審査官による認定事例である。しかし、新田氏の労働実態を示す基礎的資料は既に労基署も入手していたはずであり、たとえ労働省の認定基準によっても当然認定すべき事案であった。
 裁判所では行政判断を覆す労災認定判決例が増加しているが、早急なる被災者救済を図るという労災制度の本来の趣旨からしても、労基署による早期かつ積極的な労災認定の運用を強く望む。(弁護団=高橋典明、岩城穣、日高清司、村田浩治、脇山拓)
(民主法律時報277号・1994年10月)

1994/10/01