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H事件報告 弁護士 財前昌和(民主法律206号・1990年3月)

弁護士 財前昌和

  1. 1.はじめに
  2.  被災者者は、近時急成長している24時間営業のファミリーレストランの副店長をしていた、当時25歳の青年である。25歳という若さで脳梗塞を発症したこと、新しい業界での発症であること、マニュアルという目新しい教育制度を導入していることなどの話題性から、昨年秋かなりのマスコミに取り上げられたことをご存知の方もいると思う。
  3. 2.被災者の勤務会社の状況
  4.  ファミリーレストラン業界は外食産業の一つとして近時急成長してきた業界であるが、現在は過当競争の状況にあり、このような状況の中で生き残るため各社は徹底した経営合理化・労働強化を行っており、労働者の労働条件は劣悪である。特に被災者の勤務していた会社(以下「A社」という)は、ファミリーレストランとしては後発であったが、今や先発2社と並ぶ御三家と称され るまでに急成長していた会社であり、それだけ経営合理化・労働強化による労働者へのしわよせは厳しかった。
     ファミリーレストラン業界は、一般に従業員の大部分をパート・アルバイトに依存するという経営方針を取っている。例えば、被災者が勤務していた店舗(以下「B店」という)は、A社の西日本の各店の中で最も売上げが多くそれだけ忙しい店舗であったが、客席数110席に対して、従業員は、店長1名、副店長2名、その他の正社員はフロント・キッチンにそれぞれ1名で、他は60名のアルバイト・パートに依存している。
     また、営業馬間についても、他の業界では異例な24時間営業が普通であり、それだけ従業員の勤務時間帯・勤務形態は不規則となっている。例えば、A社では、所定の勤務時間帯は、6時30分~15時30分、9時~18時、12時~21時、14時30分~23時30分、18時~3時、21時30分~6時30分、0時~9時の7種類に分けられていた。
     また、休日も4週間を通じて4日以上という変形週休二日制、つまり、一週間一日の休日及び別に店長が適宜定める休日が所定休日であり、時期によって一週間の休日日数が異なる。そのため被災者の通所定労働時間は、週によって一定しない。
     A社は近時急激に大阪地区に進出したため、熟練正社員の育成が間に合わず、既存店舗の正社員を新設店舗に配置し、その店舗が軌道に乗るとその正社員を再び次の新店舗に配置するという無理な人事政策を取って来た。そして被災者もこの人事政策に基づいて次々と新設店舗に異動させられていた。
     また、A社は、「資格制度」という独自の人事制度を採用し、労働者の「自発性」「やる気」を引き出すために様々な工夫を行っている。
  5. 3.被災者の労働実態
     (1) 長時間労働
     被災者の一日の所定労働時間は8時間であるが、実際には被災者は発症前7カ月間、連日13時間ないし15時間、ひどい日には17時間も働いている。これはタイムカードに記載された労働時間であるが、これ以外に、店長の指示による売上伝票の整理、毎週定例のマネージャ会議、店長の仕事の手伝い等のため被災者は頻繁に休日出勤を余儀なくされていた。
     被災者の月別の労働時間は、1月(332時間25分)、2月 (271一時間07分)、3月(303時間38分)、4月(314時間56分)、5月(317時間59分)、6月(292時間45分)、7月(337時間43分)、8月(34時間27分。但し3日間しか働いていない)である。
     この発症前7カ月間の実労働時間を所定労働時間と比較すると、1月1日から8月5日までの所定労働時間が1275時間であるのに対して、実労働時間は2205時間、約1.73倍にもなる。
     被災者は、毎日の13時間ないし15時間の労働時間の外に通勤時間で片道1時間、往復で2時間かかっていた。そのため被災者右は、毎日15時間ないし17時間を仕事のために費やし、仕事以外のために使える時間は一日に7時間ないし9時間しかなかった。これに食事時間、入浴時間等が必要なことを考えると、被災者は睡眠時間を確保することが精一杯の生活をしていた。
     このように被災者の勤務時間が極めて長時間なのは、B店では慢性的に人手不足だったため、被災者の退社時間になっても後を引き継ぐアルバイト・パートが来ない場合や店が忙しい場合、結局被災者は帰ることができず、所定外労働をせざるを得なかったからである。

  6. (2) 不十分な休日
     被災者の発症前7カ月間の所定休日日数は58日間である。しかし、そのうち15日間は休日出勤をしており、実際の休日日数は43日間である。
     また、被災者の場合、夜勤・長時間労働が恒常化していたため、休日といっても実際には、休日当日の昼頃まで夜勤明けで勤務し、それから翌日夕方出勤するまでの時間を意味するに過ぎなかった。
     また、被災者の場合、夜勤から日勤、または日勤から夜勤に変わる間の日が休日になっていることが多い。この場合、休日といって良じ夜勤から日勤に変更し、勤務開始時間が早まるため、休日といってもその勤務終了から次の勤務開始までの時間は通常の休日に比べて短い。そもそも勤務時間帯が大幅に変わる場合には、体の生活リズムを新たな勤務時間帯に慣らすためその間に一日調整日をとるべきである。ところがB店では被災者に対してそのような配慮をしていなかったため、結局休日が新たな勤務時間帯に体を慣らすために使われ、疲労を回復できないまま次の勤務形態に入って行っていたのである。発症前7カ月間には このような「休日」が17日間もあった。
     さらには、人手が足らないとき店長が突然被災者の休日を勤務日に変更して呼び出すこともあった。そのため被災者は休日といえどもいつ呼び出されるか分からずゆっくり休むことができなかった

    (3) 人手・不足による過密労働
     被災者は、副店長とはいいながら実際には、売上蕗認・伝票整理、生産性管理、マネージャー会議、パート・アルバイトの教育・指導、トラブルの対応という管理職・責任者としての業務の他に、一般のパート・アルバイトと同じように接客、店内清掃などの業務もこなしており、結局店舗におけるあらゆる業務をこなしていたのである。
     また、B店は、パート・アルバイトに依存した体制であり、慢性的な人手不足であった。パート・アルバイトは十分訓練されておらず、正社員並には働けないため、従業員数は実質的にはもっと少ない。また、アルバイトは突然休むことがよくあり、その不足分が補充されないこともあり、それでなくても忙しい被災者にはそのしわ寄せが来ていた。
     さらに、飲食業という関係から時間帯によって繁閑の差が激しいが、客数の増加に見合う数の従業員を増やしていない。例えば、発症前一週間のある日、客数は普段の2倍前後になっているにもかかわらず、従業員数はいつもと同じ3~4人であり、そのため業務は極めて過密であった。

    (4) 夜勤の恒常化
     被災者の勤務時間は専ら夜勤であった。被災者の月別夜勤・日勤日数は、1月(23日・2日)、2月(19日・3日)、3月(17日・4日)、4月(17日・6日)、5月(17日・6日)、6月(16日・4日)、7月(23日・1日)、8月(1日・1日)。特に、被災者の発症前1カ月間は、2日間だけ日勤で、後はすべて夜勤である。

    (5) 昼夜勤務の不規則交替
     被災者は専ら健康上良くない夜勤勤務であったが、更に問題なのは、夜勤が続いている中に日勤勤務が1日ないし3日間だけ細切れに入ることである。被災者の発症前7カ月間の間、日勤後すぐに夜勤となっていることが11回もあった。
     人間の体は特定の勤務時間帯に慣れるまでには一定の期間が必要であるから、夜勤から日勤に交替させる場合には、その前後に休日をいれるとか、できるだけ夜勤は夜勤、日勤は日勤とまとめて一定期間続けるようにすべきである。ところが、被災者の場合には、連続する夜勤の中に細切れに日勤を入れられ、体が憤れる間もなく勤務時間帯を頻繁に変更されたため体に大きな負担がかかっていた。
     このように被災者の勤務時間帯が全く計画性なく決められていたのは、ぎりぎりの人数でやっくりしていくたゆ、人手の足りない時間帯に被災者を当てるというやり方をとっていたからである。つまり、被災者の勤務時間帯の決定に当たっては被災者の健康等は全く考慮されず、単にその日の人手不足を埋めるという観点からのみ決められていたのである。

    (6) 精神的ストレス
     アルバイト・パートの教育・指導、客への応対特に客からの苦情への対応、マニュアルの順守が被災者に大きな精神的ストレスとなっていた。

    (民主法律206号・1990年3月)

1990/03/01