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近鉄パス運転手の「喘息」過労死の認定 弁護士 松丸 正(民主法律226号・1996年2月)

1、広い過労死
  過労死問題は、狭い意味では労働省の認定基準の対象となっている脳血管障害並びに虚血性心疾患という循環器系の疾病である。しかし、過労による労働者の重篤な疾病は、神経症から自殺に至る神経系疾患、胃潰瘍等の消化器系疾患、更に気管支喘息等の呼吸器系疾患としても生ずる。このような広い意味での過労死の認定を求めて近鉄バスの路線バス運転手であった翁長達さんの労災認定は取り組まれた。

2、発症に至るまでの業務の概略
  翁長さんは、平成4年1月3日、バス乗務中に喘息発作を起こし、死亡したものであるが、死亡に至るまでの概略は次の通りであった。
  翁長さんは基礎疾病として、気管支喘息の持病を有していた。しかし看護婦である奥さんともども、その治療に努め、月1回の通院を欠かさず、その症状は比較的安定していた。
  しかし、前年の10月以降、従前にも増して、長時間の勤務か続くようになった。拘束時間(通達により1日の限度は16時間と定められている。)が、16時間を超過する日が、10月は5日、11月は2日、12月に2日とあり、また休憩時間も、とることが難しい勤務となっており、とれてもコマ切れの短い時間しかとれなかった。しかも勤務時間はその日によって異なった変則的なものであった。
10月以降のしんどい勤務の中で、喘息の症状は悪化していき、12月に入って、寒さか厳しくなることもあって、顔色はどす黒く、喀痰や喘鳴もひどくなっていった。
 しかし、乗務を休むことはせず、翌平成4年元旦、1月2日も勤務を続けた。公共交通機関の運転手としての責任感からである。
 2日の夜、翁長さんは喘息の重い発作を起こし、殆ど寝ることもできず、ふとんの上に座った姿勢でようやく呼吸(起坐呼吸)ができる状態となった。
 それでも、翌朝翁長さんは、勤務のため早朝自宅を出て営業所に向かった。看護婦である妻はその身を案じ、休むようにと言ったが、責任感の強い翁長さんは予備要員か営業所にはおらず、正月では他の運転手に代替を頼むことができないまま、重い症状をおして勤務に出たのである。
  妻は夫の症状が重いため、心配の余り夫にかわって行きつけの病院にかけこみ、発作を抑える薬をもらってきている。
  しかし、その日の昼にバス乗務中、翁長さんは発作を起こし、死亡するに至っている。

3、弁護団の2つの柱
  弁護団(長岡麻寿恵、岩城穣、豊島達哉並びに私)では、この事件に取り組むにあたり、2つの柱をたてた。
① 発症前の乗務の過重性を、通達違反の点を中心に明らかにすること(乗務の過重性)。
② 前夜の重い発作が生したにも拘らず、予備要員かおらず、かつ正月のため代替を他の運転手に頼むことかできなかったため、当日重い症状をおして勤務に出ざるを得ず、そのため治療機会を得ることができないまま業務を継続し、発症したこと(適切な治療機会の喪失と業務継続による著しい増悪)。
の2点であった。
  また、喘息と過労並びに前夜の発作と勤務継続による死亡との因果関係については、呼吸器系の専門医である耳原総合病院の川崎医師より詳細な意見書を作成してもらうことになった。
  ②の理由による業務上認定は、労働保険審査会のいくつかの裁決が認め、また判例も認めたものがある(森勇建設事件、仙台地裁平成元・9・25労判 五五二号など)。
  しかし、労働省が、右の点で業務上と認めるかどうかば、従来の通達、実例では明らかでなかった(山間、僻地、航海中などの特殊環境下での治療機会喪失のケースでは認めている)。しかし、この事件の核心はこの点にあると考え、労基署長段階で仮に認められなくとも訴訟ではこの点で勝訴できる確信をもって、労基署と交渉を続けた。

4、運動
  翁長さんの労災認定の取り組みに対し、職場の労働組合は支援しなかった。それに代わって近鉄は勿論、南海、阪神などで少数派として運動に取り組んでいる私鉄「連帯する会」や、運輸一般など、運輸産業労働者を中心に支援する会が結成され、労基署交渉に精力的に取り組んだ。
  翁長さんの妻昌代さん自身も、自らの人格をかけてと形容してもよいほど、夫の過労死認定に取り組み、認定直前には連日のように、労基署に足を運んで、訴え続けた。

5、認定理由
  95年12月末に、妻昌代さんに業務上認定の連絡か労基署よりなされた。その理由は次の通りである。
 ① 翁長さんの死因は急性心不全を認めるが、その原因となった疾病は特定できない(喘息発作であるかどうかは明らかでない)。
 ② 本件は、9号該当(その他業務に起因することか明らかな疾病)として業務上認定した。
 ③ 業務上と判断したのは、適切な時機の治療機会かなされないまま勤務を継続し、そのため発症したと認められるからである。
 ④ 具体的には前夜の重い症状か生じたのだから、当日の勤務をやめて治療を受けるべきであったが、正月で代替を依頼しにくい特異的な環境下にあり、かつ公共交通機関の運転の業務のため、体の不調をおして勤務についた。そのため治療の機会を得られず、かつ発症後もすみやかな病院での受診を受けることかできなかったことである。

6、本件の意義
  このように本件決定は、喘息につき過労死を認めるという判断は回避し(労働省サイドの意向のようである。)、死因は急性心不全と曖昧にしたまま、かつ業務の過重惟を判断せず(ボディーブローとしての意味は当然配慮したと考えられる)治療機会の喪失で業務上としたものである。
  喘息につき過労死認定に取り組んでいる事件は大阪でも他にもあり、全国でも多くある。本件は喘息そのものについての判断は避けているものの、実質的には喘息の過労死の事案であり、また治療機会の喪失を認定理由とした点でも労働省の今までの立場を救済の方向に一歩進めたものと評価できよう。

4年間の労災認定の闘いと、今の思い
                               翁長昌代
  昨年12月28日、主人の過労死について、中央労基署で労災認定がなされました。
  一口に4年間と言っても、私にとっては長く暗いトンネルの中の生活でした。長男の就職や次男の受験と心の痛む事の多い中で、仕事もしつつ、闘争の生活と生きるための生活を両立することは、一言で言い尽くせないものがありました。
  思えば1992年1月3日、日本中がお正月で楽しくにぎわっている最中、我が翁長家に突然の沈黙が襲い、言葉では表現てきない、悲しい日となりました。あの日、虫の知らせでしょうか──主人の生命の危険をなぜか感じ、営業所に主人の容態を連絡したにもかかわらず、私の要請は、会社の管理職に踏みにじられ、主人は昇天してしまいました。喘息の持病を持った夫は、疲労の蓄積から破局へと進んでしまったのです。
  夫の突然の死、身体の水分の全部が涙となって流れてしまうかと思うほど、悲しみの感情がとめどなく涙を流させる日々が続きました。2人の子供は、あの時はお母さんに声をかけることもできなかったと、後で聞かせてくれました。子供たちの悲しみも考えず、自分だけか悲劇のヒロインのようになってしまったような気持ちであった当時の自分を、後になって反省をしたものでした。
  「泣いてはいられない、何とかしなければ‥‥。そうだ、労災の申請をしよう」そう思い立ち、家族に相談したところ、全員反対でした。「死んだ人は帰らない、しんどい思いをするな」これが家族全員の答えでした。1人で近鉄本社へ乗り込んで、部長、課長と何回も話合いをしました。課長の答えは、「奥さん、翁長君は二十数年間も良く働いてくれました。貴女がここで騒ぐことで、彼のロマンはどうなるか考えてみて下さい」というものでした。私は心の中で叫びました。『課長、あなたの部下が死んだんですよ。まだ50歳にもならない若さで‥‥。そんな事、よく言えますね。あなたの部下に対するロマンこそ、いったいどうなってるの?』 こんな課長の下で働いていた主人か、とてもかわいそうでなりませんでした。
  主人が死亡したことで会社は慌てふためき、小さな営業所の一運転手の為に、会社のバスを出し、営業所の全社員を葬儀に出席させ、大変な騒ぎでした。その慌て方一つを見ても、自分たちのミスを公表しているようなものです。葬儀の日、会社の点呼担当の助役が一日中私の家で大声で泣いているので、何も知らない私は、主人のために、あんなに悲しんで下さっている人がいるんだなあと思ったものでした。
  そんな助役が、私が労災申請の話を出すと、手のひらを返すように会社側につき、人間の醜さをいやと言うほど知らされた思いでした。あの大声で泣いたのは何だったの‥‥?  課長にしても、バスまで出して精一杯のことをしたつもりでしょうが、死ぬ前にそれをしてほしかった。1分1秒早く救急車を呼び、人命を救ってほしかった。従業員に対する安全配慮というものが、近鉄にはありません。現代社会では当然のことを、近鉄ともあろう大企業か、全く行っていないのです。
  生命よりも企業利益を優先させるという、大企業の非人道的横暴によって、尊い生命か奪われました。これこそ明白な「企業殺人」であり、犯罪的な労働災害と言わなければなりません。
  人・命を預かる交通労働者が、お客様を巻き添えにして過労死するようなことだけは、絶対にあってはなりません。せめてお客様を巻き添えにすることなく終点まで行った主人のお客様に対する思いを、とても立派たったと、毎日お仏壇の前で褒めてあけています。
  さまざまな過酷な労働条件が過労死のきっかけになっていますか、それら一つ一つを見ると、今の企業社会では当たり前になっており、誰かか倒れないとそれが異常と気かつかないほど「日常化」しています。不幸にして倒れた家族の救済、過酷な労働条件とそれの健康への影響の究明と予防のために、労働者の闘いを強化せねばならないと考えます。過労死の闘いは、人間の尊厳を求める闘いです。
  幸いにして私は、業務上の認定を勝ち取ることができました。これは、素晴らしい弁護団と、『君の汗と涙は、俺たちのもの』という素晴らしいロマンを持った私鉄の仲間、そして大阪交運共闘会議の皆さんから大きな支援を得、大きな愛に包まれ、たくさんの良い人たちに恵まれて勝ち得た認定であり、多くの皆さんと共に喜び合いたいと思っております。4年間という長い月日を、本当に心強く過ごすことができ、支援して下さった各労組の皆様、本当にありがとうございました。心より感謝申し上げます。
  そして、今闘争中の皆様、何も分からなかったこの私でも、頑張ることができました。どうか粘り強く頑張って下さい。少しでも時間があれば、労基署や労基局に足を運び、どんなささいな事でも訴えて、わかってもらって下さい。最後に、健康に気をつけて‥‥。
  ともに頑張りましょう。
(民主法律226号・1996年2月)

1996/02/01