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平岡過労死事件──勝利和解への軌跡── 弁護士 岩城穣・西晃(労働法律旬報)

弁護士 岩城  穣
弁護士 西   晃

第一 平岡過労死事件の概要
 この事件はわが国の働きすぎによる過労死事件の典型とも言える事件であり、国内はもとより広く海外にも紹介され、「カローシ」という言葉を国際語にする契機にもなった事件である。
一 故平岡悟さんの労働実態
 故平岡悟さんの勤めていた株式会社椿本精工(本社大阪市北区)は、ボールベアリング用の鋼球等を製造する会社で、悟さんは被災当時同社の奈良県葛城工場のS2工場(小径ベアリング用鋼球製造)の班長(班員約三〇名)として、勤務していた。
 同社は当時、昼夜一週間交替の「二直二交替制」の勤務体制を取っており、一九八八年(昭和六三年)三月一日からの株式一部上場に向けてフル稼働し、恒常的な「引継ぎ残業」、休日出勤が行なわれていた。
 悟さんには「冠不全」の基礎疾病があり、健康診断でたびたび心臓について「要精検」「要観察」の診断がなされていたにもかかわらず、右のような勤務体制と人員不足のもとで、班長としての生産及び班員の管理業務と共に、自ら現場の作業に中心的に従事することを余儀なくされ、一部上場を一週間後にひかえた八八年二月二三日、帰宅後自宅で急性心不全を発症し、四八歳で亡くなった。
 悟さんの死亡前一年間の実労働時間は実に三六〇〇時間強にも及び、一日の労働時間は月曜日から土曜日までは平均一二時間以上の拘束労働、一週間毎に日勤と夜勤とが交替する勤務体制であったが、その日勤と夜勤が入れ替わる日曜日(本来はこの日にゆっくりと休まなければならないのであるが)には、実に一六~一九時間の拘束労働に従事していた。そして、死亡した年の一月四日から死亡する二月二三日までの五一日間の間、暦日の休日はおろか、二四時間連続の休日すらないというすさまじいものであった。

二 労災保険請求と労災認定への取り組み
 悟さんが死亡した直後の四月、大阪で全国に先駆けて大阪過労死問題連絡会による「過労死一一〇番」が実施されたが、そこに一番最初にかかってきた相談が、奥さんの平岡チエ子さんからの相談であった。チエ子さん自身「過労死一一〇番」に電話する前に、会社や会社の労働組合に労災ではないかと相談していたが、会社はおろか労働組合までもが、全く非協力的な態度に終始していた。このような状況の中、残されたチエ子さんら親子はもとより、心ある労働者、市民、医療関係者らの協力によって労災申請の準備が進められ、八八年七月七日奈良県葛城労働基準監督署に労災申請の手続が行なわれた。

三 労災認定と提訴までの経過
 申請後半年くらいまでは労基署の担当者の対応も厳しく、交渉の中で「平岡さんの労働時間よりももっと長く働いている者が会社には何人かいる」とか、「奈良県下では椿本精工の労働条件はまだましな方かもしれない」等全く我々の感情を逆撫でする発言もなされた。このような労基署の対応を変えたのが、一つは職対連や、全港湾阪神支部等の労働組合の支援の力、そしてもう一つはNHKをはじめとするマスコミとその報道によって盛り上がった世論の力であった。
 そして、遂に翌一九八九年(平成元年)、五月一七日、悟さんの発症を労災であるとする業務上の認定がなされた。我々弁護団が口頭で受けた認定理由によれば、故悟さんの労働実態をほぼ正確に認定した上、「‥‥被災者の通常の所定業務に比して、かなりの身体的に過重な負荷があったと考えられ、その過重負荷により(かねてより存した軽い)心疾患が急激に著しく重篤な状態にいたったものと考えられる」との事であった。この判断は悟さん発症の前年(一九八七年)労働省が新しく制定した新認定基準(労働省昭和六二年一〇月二六日付基発第六二〇号)にそったものであるが、被災者の業務の荷重性の判断について、当該労働者の現実の業務と就業規則等所定の業務(日常業務)を対比すべき事を明確に意識したものであり(労働省労働基準局補償課編「脳・心臓疾患の労災認定」八〇頁参照)、災害主義的視点に立った旧認定基準との決定的差異を明らかにした画期的なものであった。
 NHKをはじめとする各マスコミも、全国に向けてこの認定の事実を報道したが、「働きすぎによる過労死」を正面から国が認めた事の意義は大きく、各方面に与えた影響も大きかった。又、この認定は、過労死を発生させた企業に対し、重大な反省を求めるものとなるはずであった。認定を受け、喜びの涙を流したチエ子さんや二人の子供さんらも当然そう思ったに違いない。
 しかしながら、椿本精工においては、「会社は平岡さんに過重な業務を強いたことはない。本人が自ら自主的に働いたものである」とうそぶいていた。業務上認定の喜びもつかの間、チエ子さんらの過労死を発生させた企業に対する責任追及という以降五年半に及ぶ長い闘いがここから始まったのである。

第二 裁判における争点と立証における特徴
一 裁判における争点
1 我々の主張
 いうまでもなく、過労死に対する企業責任追及訴訟と労災認定とはその判断権者が違うというだけでなく、要件として、業務と発症の因果関係に加え、会社の安全配慮義務違反--我々は過労死事件の特質に合わせて、これを「健康配慮義務違反」と名付けた--が認められることが必要である。
 我々はこの点について、次のように主張した。
1) 悟さんには冠不全の基礎疾病があり、健康診断でたびたび心臓について「要精検」「要観察」の診断がなされており、会社はそれを知っていた。
2) 悟さんは班長として、班の生産及び約三〇名の班員の管理とともに、自ら現場の作業に中心的に従事し、死亡前一年間で三六〇〇時間以上、亡くなる前五一日間に一日も休日ないという超長時間労働に従事し、しかも一週間おきの二直二交替を中心とする昼夜交替勤務に従事した。
3) 会社が、①にもかかわらず、悟さんの健康に配慮した労働時間の規制管理を全く行わず、②をさせたことは、健康配慮義務の履行を怠ったものである。

2 会社側の反論
 これに対する会社の反論は、要約すると次のようなものであった。
1) 循環器系疾患の病因には、素因、加齢、既往症、飲酒、喫煙など多くの原因が関与するのが通常であり、平岡には相当の飲酒、喫煙の習慣があった。
2) 労働者は、契約上債務の本旨に従った労務を提供すべき義務があるのであるから、労働者の健康管理義務は、第一次的には当該労働者本人にある(労働者の自己保健義務論)。
 本件では、本人から健康状況について格別の申告もなかったので、会社としては格別の配慮の必要を感じなかった。
3) 確かに平岡の労働時間は長いが(これらはタイムカード等により被告も争う余地がなかった)、その内容は監視労働を主体とする単純労働であり、大したものではなかった。
4) 長時間労働は、平岡が残業手当ほしさに、自ら率先して従事したものである(率先労働論)。

3 我々の再反論
 要件事実的にみると、1)は業務起因性(相当因果関係)の否定ないし過失相殺の主張、2)は健康配慮義務自体の限定解釈ないし過失相殺の主張、3)は業務の質的な過重性の否定による業務起因性の否定、4)は過失相殺の主張として位置づけることができよう。
 1)のうち業務起因性の問題については、主として労災の業務上認定や行政訴訟において、いわゆる相対的有力原因論か共働原因論かの争いがあるところである。我々は準備書面において、判例理論においては共働原因論がほぼ確立していること、本件は行政の厳しい認定基準のもとでも業務上認定がなされていること、を主張した。
 2)については、①自己申告を期待するためには、申告内容が査定上不利に扱われず、適切な事後措置が事業者によって取られることが制度的に保障されていることが必要であり、従って、平岡の自己申告を問題とする以前に、被告が事業者としての法定の義務(健康診断及び適切な事後措置、産業医の設置など)を果たしていたかがまず問われるべきであること、②右の制度的保障のうえに、自己申告の重要性や必要場面についての指導や教育がなされていなければ自己申告を期待することは非現実的であること、を主張した。
 4)については、会社の勤務体制とそれを支える三六協定によって残業が必然的に組み込まれ、班長である悟さんはこのような超長時間労働に従事せざるを得なかったことを主張した。
 右のうち2)と4)は、本件に限らず、一般に過労死の企業責任追及訴訟において被告から主要な反論としてなされうるものであるところから、我々として特に力点を置いたところである。

4 浮上しなかった争点
 なお本件では、①業務の過重性と急性心不全の発症との医学的な機序、②会社の悟さんの死に対する予見可能性(これは健康配慮義務違反の前提と解され、また判例によっては相当因果関係の一要素とされている)という問題もあったが、いずれも被告側が積極的に主張してこなかったために、本件では主要な争点となるに至らなかった。

二 立証段階における特徴
1 立証上の難点
 本件における立証上の最大の難点は、退職した一部の人などを除き、会社内部で原告側に協力してくれる労働者が全くいなかったことである(これ自体が現在の企業社会、過労死問題をある意味で象徴しているものである)。そのため、悟さんの仕事の具体的な内容や労働密度、作業環境が事前にほとんどわからず、ほとんど手探りの状態であった。
 もどかしさと悔しさを感じつつ立証方針について検討を重ねた結果、タイムカード等手元にある資料をもとに、会社の労働安全衛生体制と勤務体制、悟さんの労働実態を徹底的に明らかにするところから始めようということになった。具体的にはまず工場長、次に労務部長、S2班の担当係長という敵性証人をこちらから申請するという異例の方法をとらざるを得なかったのである。反対尋問が勝敗を決することになることから、準備に全力を尽くしたが、果してどれだけ労働実態と健康管理の実態について明らかにできるのか、我々弁護団自身、不安でいっぱいであった。

2 法廷で明らかになったこと
 ところが、実際に尋問に入ると、当初の予想をはるかに超えて、会社での凄まじい労働の実態、健康管理へ全く無配慮な実態が次々と明らかになっていった。具体的には次のようなことである。
 ① 二直二交替の昼夜交替制勤務によって、恒常的な引き継ぎ残業が行われていたこと(驚くべきことに、当時の就業規則では「交替勤務者の就業は、始業午後八時、就業翌朝午前七時三〇分とする。ただし、所定の実働時間は七時間三〇分とし、それ以上は時間外勤務とする。」とされており、引き継ぎ残業が就業規則上制度化されていたのである。これは悟さんの死後改正され、更にその後三直三交替勤務制が導入された)。
 ② マル秘の「残業割当表」(これは悟さんの遺品の中に残されていた)によって、各工場(班)ごとに、膨大な残業時間が割り当てられていたこと(これが書証として示された時の係長の狼狽は相当なものであった)。
 ③ 更には、「マル手残業」の名で、一時間の昼休みの半分を残業扱いで仕事に就かせていたこと(その後労基署の指導で廃止された)。また労基法で義務づけられた「一せい休憩」を、労基署の許可も得ないでずらして取得させていたこと(これについてもその後労基署の指導を受け、許可を得るようになった)。
 ④ 労働組合との三六協定は全くの青天井で(労務部長はこれを 「青空的」と表現した)、制度的には何と一日二四時間まで働かせられることになっていたこと。いわゆるガイドライン(昭和五七年労働省告示六九号)に基づく特別協定(延長することができる特定時間を四週間で一一〇時間とする)も一応締結されていたが、運用上、その要件も手続もほとんど無視されていた(この点で本件で労働組合の果たした役割は犯罪的である)。
 ⑤ 悟さんが「率先して」引き継ぎ残業や休日出勤をしていたのは、それらの人員を確保することが容易でないことが原因であり、そのために悟さんは不規則な昼夜交替勤務(一五日間連続夜勤や九連続夜勤など)をしたり、昼勤と夜勤の間の休日にはほとんど出勤(最高三一時間連続勤務というのもあった)をするなど、殺人的な超長時間労働を余儀なくされたこと(特に健康診断で昭和五九年に「冠不全治療中」、昭和六〇年に「冠不全観察中」の診断が出ていたにもかかわらず、年間労働時間は一九八四年は約四〇〇〇時間、八五年は約三九〇〇時間に達していた)。
 ⑥ 係長の尋問の中で存在が明らかになった「作業票」(日々の作業の内容を記載したもの)によれば、現実の製造ラインにおいては、一人で二〇台もの機械を同時に取り扱い、それぞれの機械ごとにベアリング用鋼球を取り出したり、一個九キログラムもある機械の盤の交換作業を行ったり、油や研磨剤を注入するなどの作業が必要であり、とても会社の主張するような単純な監視業務とは言えないこと。
 ⑦ 会社の安全衛生管理体制は名ばかりで、特に健康管理に関しては、法律上設置が義務づけられた産業医も置いておらず(本件発生後設置された)、健康診断で異常を指摘された者についても本人からの申告がない限り対応しない、仮に申告してもそれが不利益に評価されない保証は全くないという、全く杜撰なものであったこと。
 ⑧ 労働安全衛生委員会は、事実上会社の生産上の効率を高めるためのものになっており、労働者の健康については全く論議されず、悟さんの死亡についても全く議題にさえ上らなかったこと。

3 会社は証人の後ろの傍聴席に何人もが座って証人に圧力をかけ、また我々が係長の尋問の前には工場の施設と機械について検証の申立を行ったが、会社はこれを「企業秘密」を楯に拒否するなど、必死の抵抗を行ったが、それでも我々の追及によって証人の口から次々とこれらの凄まじい労働実態と杜撰な健康管理体制が語られていく中で、明らかに法廷の雰囲気が変わり、形勢が逆転したと感じられた。
 実際、係長の尋問の最後に行われた裁判官の補充尋問は、原告代理人のそれかと間違うほど、怒りに満ちた厳しいものであった。
 裁判官をしてそうさせたものは、後述する法廷内外の運動の高まりもさることながら、まさに事実の重みの力であろう。弁論の段階では一定説得力を持つと感じられた会社の主張は、この事実の重みの前では全く陳腐な言い訳に過ぎないことが、誰の目にも明らかになっていったのである。

第三 支援運動の広がりと勝利和解
一 支援運動の広がり
 この平岡過労死裁判での特徴の一つは、その支援運動の広がりと高揚であった。「平岡過労死裁判を支援する会」は会員わずか数十名と事務局数名の組織であったが、チエ子さんら遺族を先頭に、各地での訴えや毎月二三日(悟さんの命日)の工場門前でのビラまきなど、地道な運動を続けてきた。労働組合の組織的な動員はなかったが、傍聴者は次第に増えていった。半分くらいは初めての参加者で、その人が次に傍聴者をさそって参加するという形で支援が広がっていき、平成六年に入ってからはそれまでの通常の法廷から大法廷(約一〇〇名収容)で審理され、その大法廷もほぼ埋め尽くすところまでになった。毎回の法廷終了後に行なわれた交流会の参加者もどんどん増え、学生が誘いあったり、大学のゼミ単位で参加するなど青年や学生が関心をもって参加したことも特徴であった。
 又、九二年の八月と一二月には、この平岡事件を中心的なモデルにした劇「突然の明日」の上演運動が大成功し、支援運動の広がりと高揚の重要な契機となった。

二 勝利和解成立
 裁判における椿本精工の姿勢は第二においても述べた通り、業務と悟さんの死亡との因果関係はおろか、安全(健康)配慮義務違反についても全面的に争うというものであった。しかしながら、右に述べた支援運動の広がりと高揚の前に会社も遂に和解の話し合いの席につくこととなり、九四年九月の裁判長の和解勧告以降、和解交渉に入った。私たち弁護団としては、和解に臨むについても決していい加減な和解はしないという決意のもとに、
① 故平岡さんの死亡と業務との因果関係を明確に認めるのみならず、安全(健康)配慮義務違反の責任を認めること。
② 謝罪の意思表示を明確にすること。
③ 請求の趣旨(五五〇〇万円)にほぼ相当 する金員(五〇〇〇万円)を支払うこと。
の三点を骨子とする原告側の和解案を裁判所に提示した。私たちの提示した和解案はほぼ請求の趣旨通りのものであり、又、判決では求めようのない謝罪を要求するというものであって、和解には相当の困難を予想していた。
 しかしながら、予期に反して裁判所は、右の原告案をほぼそのまま裁判所案として双方に提示するに至り、右の裁判長の勧告以降わずか二回の交渉で和解に至ったのである。
 九四年一一月一七日、大阪地方裁判所八〇六号法廷で成立した和解条項の骨子は次の通りである。
① 被告は原告らに対し、本件死亡が被告の亡平岡悟の健康に対する適切な配慮を欠いたものによることを認め、これを謝罪する。
② 被告は原告らに対し、本件死亡に関する和解金(慰藉料)として既払金を除き、金五〇〇〇万円を支払う。

第四 勝利の意義と今後の過労死問題への取り組みについて
一 今回の勝利和解の意義
 今回の勝利和解は、会社に健康配慮義務違反を認めさせ、謝罪までさせた点で請求の認諾以上の完全勝利であり、全国の過労死裁判や労災認定闘争を限りなく励ますものといっても過言ではないと思う。
 しかし、我々が常日頃過労死の労災認定闘争や裁判を闘っている実感からすれば、ある意味でこれほど条件が揃い、「闘いやすい」事件はなかったともいえる。一般の過労死事件では過重なノルマの負担により「率先労働」が組織され、タイムカードもなく、労働時間の把握さえ困難な事案が圧倒的だからである。
 また、今回は判決に至らなかったために、率先労働論の克服、健康配慮義務と自己保健義務の関係及び過失相殺ないし寄与度減額の問題、会社の予見可能性など理論的課題についての裁判所の判断は得られなかった。
 そのような点を踏まえつつ、今後この闘いと勝利和解から教訓を引出し、あちこちの過労死裁判・過労死認定闘争にそれを生かしていくことが求められていると思う。

二 会社はなぜ謝罪したのか
 最後になったが、今回なぜ会社が謝罪をしたのかについて、その要因を慎重に検討することはきわめて重要な事であると思われる。もとよりいくつもの要因があるのであって、どれか一つを特定することは不可能である。
 しかしながら、確かに言えることは、会社が謝罪を決意するに至った重要な要因として、普通の一般市民、主婦、学生、労働者等がこの事件に向ける注目度の高さが指摘されるのではないかと思う。もし、この事件が労働組合の組織的な動員による支援体制のみによって支えられてきた事件であれば、会社は謝罪まではしなかったかもしれない。自分の会社の従業員が過労死で倒れても、「率先して仕事をした」とか「会社の都合ではない」とか主張し、自己の責任を全く認めようとしない、そんな企業体質に向けられた一般市民の冷徹な目こそが会社をして謝罪を決意させた重要な要因であったと考えられるのである。
 この事は今後の裁判闘争のあり方を考える上でもきわめて重要な点であると思われる。

(労働法律旬報より転載・一部補正)

1994/11/01