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「ひとりでたたかう母さんたち」を100余名が激励! 関西鉄工宮沢美佐子さんを守る会 宮沢美佐子(民主法律時報260号・1992年12月)

いのちと健康が大切にされる社会の実現を!
「ひとりでたたかう母さんたち」を100余名が激励!

関西鉄工宮沢美佐子さんを守る会 宮沢美佐子

 「ひとりでたたかう母さんたちを励ますつどい」が11月27日、エルおおさかでひらかれました。
 過労死で夫を奪われたり、夫のじん肺裁判を受け継いだり、職業病の企業責任を追及して裁判を続ける女性たちが、自分たちで手作りした集会です。
 集会当日は、大阪・兵庫・京都・奈良・三重から100人余名が集まり、おもくきびしい訴えに、涙をともに流しながら、心をこめた励ましを送りました。
 それぞれの報告は別掲のとおりですが、過労死遺族で会社を相手に損害賠償裁判中の平岡さんが参加できなかったので、代わって松丸弁護士から平岡さんのとりくみが紹介されました。
 また会場には、過労死で亡くなった26歳の証券マン、亀井さんの遺族もみえて、参加者に支援を訴えました。
 集会のまとめの中で、同志社大学辻村教授は、「カンパ・傍聴だけではなく、みずからの職場でも命と健康をまもる改善闘争が母さんたちへの励まし」と挨拶されています。
〔報告1〕
 「早く帰して」と会社に電話したのに…
         古沢昌代さん

 私は近畿日本鉄道の路線バス運転手だった夫の「喘息による心不全」死の労災認定を労基署に申請中です。
 夫は喘息の発症・増悪因とされるディーゼルの排ガスに曝されるバス運転に従事、今年1月2日夜に発作を起こしながら、翌日要員不足のため、出勤。主治医の「発作の状況はかなり重症」とする判断があって、早く帰らせてもらいたいと会社に電話しました。
 会社は帰宅させることもせずに、午後1時、本人は電話もできない容態までに悪化、同僚の運転手に手を上げ、交代の電話を頼んだそうです。会社はさらに救急車も呼ばず、会社のサービスカーで自宅に送る途中、大発作が起こり死に至らせました。
 労基署通達の「自動車運転手の労働時間」による1日の拘束時間は最大限10時間とされています。
 ところが夫は、1991年就労日数259日のうち、これを越える日が162日、うち43日は16時間を超えました。1日の労働時間が8時間を超えなかった日はわずか8日でした。
 労災申請中のこの1年は、私にとって1カ月の短い時間に感じました。精神的ストレスと肉体的疲労が重なって、子どものために働かなければならないし、こんなことしていても主人が帰ってくることもないし、もうやめようと何回も思いました。でも、その度に皆さんに励まされて、また今日の集会に参加させていただき、私は私なりにこの運動に力を注いでいきたいと考えています。

 〔報告2〕
 「僕は奴隷かなぁ」と夫が…
         Kさん

 私の夫は、関西電力の子会社㈱きんでんの下請け岡崎電業に勤務、架線工事に従事、花博開催の突貫工事に派遣され過酷な業務に従事して2カ月、くも膜下出血で倒れました。
 夫の勤務は、日勤にひきつづき2時間の休憩をはさんで深夜作業に入り、ひどいときには週3回でした。極度の緊張を強いられる宙吊り作業、心身に響く削岩機の使用など、人のいやがる仕事を我慢づよく、疲れていても表情にも出さずにがんばっていました。
 倒れる1週間前、どうしても起きることができず、寝床で「僕は奴隷かなぁ」と、ぽつりと漏らし、私は休がふるえました。私は絶対過労死と思い、どうしていいか分からず悩み苦しみ1人で駆けずりました。
 過労死のたたかいは毎日が苦しく、辛くて心細くてどうしていいか分かりません。疲れきり、原因不明の病気にかかり信号の色が青か赤かさえも分からず、それでも、何かを知りたい、真実が知りたいとかけずりました。
 下の子は、早くお父さんのところに行きたいと私を悩ませ、上の子は、お母さんもうやめよう、私が働く。たった1人のお母さんまで失いたくないから…。でも私はあきらめないのです。
 (健康に)気を付けても気を付けても、気を付けられなかったのです。企業の世の中の犠牲になったのです。
 主人がその死を通じて何をいいたかったのか、労災認定されたとき初めてゆっくり夫は眠れるのではないかと思っています。

〔報告3〕
労基署の良識を信じていたのに
         新田笑子さん

 私の夫は、電車架線工事をK電鉄から請け負っていた会社の出張所長でした。1人で何から何までやっていました。水・金は日勤、その夜は午前5時まで深夜作業。月・火・木・土は深夜作業明けに昼から勤務。深夜作業が終り、家に帰るのが6時30分ぐらいで、手早く朝食をとって、就寝。10時半か11時ごろ起き11時半ごろ現場事務所に出かけ、13時から作業所で仕事。深夜明けは4時間あるかなしかの睡眠時間。時には深夜明けでも朝からの仕事があればこなしていました。火・木・土の夜だけは人並みに睡眠が取れるはずでしたが、忙しい時は家に帰らないで、直接夜業に出ました。
 亡くなる1日前、土砂降りの雨の中を、(線路)切替え作業をやっております。20人の作業者が働いて、普通の2倍の人員量でした。
 1988年5月業務外とされましたが、「(死の前の)8月の仕事ぶりは物凄い。しかし、死亡前1週間は普段と変わらない。負担の過重はなかった」と労基署は業務外認定の理由を述ベ、「この資料どおりにやっていれば、もっと早く死んでいたはず、どこかで帳尻を合わせているのだろう」とまで言いました。生活のリズムが昼夜逆になるしんどさが、労基署に分かってもらえなかったのです。
 私は夫から託された3人の子どもたちを上の学校に行かせてやりたいと思います。現在パートの仕事をしていますが、力がとても及びません。
 切実に認定されたいと思います。

 〔報告4〕
苦しい息の中で本人尋問に耐えた夫
         西森洋子さん

 私の夫は、30歳代に鉄道トンネル工事、黒部第四ダム工事で働いて、多量の粉塵を吸い、後じん肺を発病、労災じん肺管理四と認定されました。
 入院中に加害企業の鉄道建設・間組の労災発生責任を追及して、損害賠償請求の裁判をおこしました。そして10回にわたる入退院をくりかえす厳しい闘病生活に耐えながら、裁判をたたかう中で亡くなりました。いまは私たち遺族が裁判を受け継いでいます。
 夫の入院中、病院で開かれた出張裁判でのこと、車椅子で酸素ポンプを横に簡素吸入しながら、主治医・看護婦が付き添って本人尋問が行われました。
 夫は苦しい息の中で、会社側弁護士の汚い尋問に胸を張って答えました。
 肩で息をしながら、大きな声で正直に答える態度が裁判官の心を打ったのでしょうか、裁判官は尋問途中で席を立ち、車椅子を自分の手で引き寄せて「苦しいでしょう、小さい声でも聞こえますよ」といってくれました。
 私はやめるよう主人に言ったのですが、最後まで頑張るといって、2時間の尋問に耐え、その夜から、症状が悪化しました。
 いま、裁判所勧告による第1回和解交渉が12月28日に予定されています。
 加害企業に責任を取らせ謝罪させ、主人の七回忌には勝利報告を主人の郷里にしたいと思っています。

 〔報告5〕
 「けいわん」になった途端会社の態度が急変して
        宮沢美佐子さん

 私は新設量産工場で50人前後の労働者の中、たった1人の事務員でした。
 女だったからでしょう、食事の準備から倉庫の仕事、切断した指も繋げることも覚え、けが人の運搬もしました。
 罹災前は人を誉めることをしない(先代)社長が、系列会社の人事担当を引き連れ、私の仕事ぶりを見学させたほどでした。
 生産目標が上げられ仕事が増えても増員を聞き入れてもらえないで、疲労が蓄積して「けいわん」に罹災。
 労基署が業務上と認定したが、「使えない体は、うちの会社に要らない、身の振り方を考えよ」といわれ、同僚の前で罵倒・恫喝、トイレにまで尾行されるひどい目に会いました。
 4年前、職場と結びつき、攻撃に負けない私を企業スパイにでっちあげ、会社は私を職場から追い出しました。仮処分で勝ちましたが、会社は職場に戻しません。
 賃金・一時金の是正も、20年前の罹災以降されていません。
 企業責任追及の損賠訴訟は、来年で12年目、終結が予測できますが、会社は引き伸ばしを続けています。
 働きやすい、健康で安全な職場は、みずからが作るものと体で学びました。1人でも多くの方が、ご自分の職場で、地域で、命と健康を守って、ともにたたかっていきましょう。
(民主法律時報260号・1992年12月)

 

1992/12/01