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カルビー製菓要田事件 弁護士 池田直樹(民主法律211号・1992年2月)

弁護士 池田直樹

第1 事件の概要
1 被災者
 要田和彦 昭和28年4月22日生 63年4月10日死亡 (34歳)
  死因 急性心不全
  家族 妻と当時1才の長男。

2 仕事の内容
 カルビー各務原工場包装部門技術責任者(主担) で、昭和51年入社し、各地を回った後、58年10月から岐阜県各務原工場勤務。この間59年QC全国大会で発表貰。また60年アルミ包装で社長賞、さらに死後特別社長賞を受けるなど優秀な技術者であった。彼は八つの社外資格(ボイラー技師一級他)も持っていた。仕事内容は包装関係の械械の管理調整改良(技術職)の他、人事管理も行っていた。
 死亡後見つかった手記その他を見ても典型的な会社人間であったが、人にそれを押しつける猛烈上司のタイプではなく、むしろ人の分まで自分で全部背負い込む真面目人間タイプであった。

3 労働実態
 勤務時間は、午前5時15分~午後1時40分のⅠ直勤務と午後1時35分から午後10時までのⅡ直勤務の一週間交替制勤務で、週休2日を所定休日としていた。
 しかし、実際の勤務状態は、彼は工場でいつも一番に出勤し最後に退勤するのが日常的であり、休日出勤もしばしばであった。残業時間は管理職でそのままはついていないが、タイムカードによっても月45時間前後、奥さんの話によれば、毎日14時間前後の労働を繰り返しており、サービス残業を入れると月100時間以上の残業をしていた計算になる。
 さらに自宅での人事関係の風呂敷残業の他、業務に関する自宅学習や管理職としての会社行事への参加等々、仕事仕事の毎日であった。

4 健康状態
 会社の検診結果は異常ないが、亡くなる11日前から体調を崩し、3月30日38度の発熱があり、31日帰宅後医者に行き、4月8日心臓の痛みを訴えている。9日医師に心電図をとってもらい、不整脈があったが、重要な会議があるとして、精密な検査を受けずして出勤している。

5 死亡当日の状況
 死亡当日は日曜で休日であったが、起床後、名古屋の包装博覧会に行く予定にしており、妻が体調が悪く疲れているのだからと必死に説得して、取り止めた後、胸の痛みを訴え倒れ、救急車で運ばれるが死亡。

第2 労災申請上の問題点と方針と結果
1 労働時間 (時間数)
 妻の申立によれば毎日14時間から16時間の不規則労働を繰り返しているが、管理職ということで、残業手当てがそのままついておらず、正確な労働時間をどう把握するかかが第一の問題点であった。タイムカードも出勤時刻(Ⅰ直の場合)か退勤(Ⅱ直)のいずれかしか記録がなかった。そこで、会社の出入門管理記録を提出させ、それによってかなり長時間労働を立証することができた。Ⅰ直の場合のはとんどの最初の出勤者とⅡ直の場合の最後の退勤者が彼だったからである。しかし、それだけでは不十分なので、同僚からの証言を数多く集めた。それらは彼の長時間労働を一般論として肯定するものだけでなく、直前一週間に関して彼が最後まで残っていたことを証言したものも含まれていた。穴は否定しえないが、監督署に対し長時間労働を印象づけることには成功したと考える。

2 労働時間~自宅労働分
 管理職としての風呂敷残業や自宅学習についても奥さんの記憶をもとに主張したが、必ずしも充分な立証はできなかった。しかし、彼の手記や同僚の証言その他から、彼が自宅でも仕事ないし関連の勉強を続けていたことは監督署としても否定しえない状況であったことは間違いない。

3 労働時間~直前2週間
 最大の問題点は直前2週間の労働時間で、会社記録によれば、直前1週間はむしろ労働時間は減少している。出入門管理記録にも丁度直前1週間は彼の名前が出てこない。それがあまりに不自然なので、当初は偽造も疑った状況だった。結局、監督署の認定(正確な数字は不明)と当方の主張(所定の50時間に対して1.85倍)に問には若干のズレがあった模様である。しかし、監督署としては会社の記録をそのまま採用したわけでもないようで、このあたりは後述する運動の成果とも評価できよう。

4 業務の質
 要田さんの業務は技術面から人事面まで多岐にわたり、しかも食品製造という面から、相当高度の品質管理が要求されるストレスの強い業務であった。加えて、カルビーではIEと呼ばれる人間工学に基づく作業管理手法を導入しており、すべてのコストや実績が数値化されるシステムとなっていた。彼はこの手法を非人間的と嫌悪しており、この点も彼のストレスの要因となっていた。ただ、このような質的な問題は立証が困難である。我々としては、後に責任が集中した体制の問題、IEの問題、交代制不規則勤務の問題、直前の機械の不良や新入社員指導の問題等々、細かい事実を挙げて主張し、証言でそれを構ったが、決して充分な調査ができたわけではない。ただ、実際の決定においては右業務の質の面もかなり重視されており、今後の参考とされるべきである。

5 急性心不全の問題
 りん伺事項とされるかどうかの瀬戸際にあったわけだが、最終的に心筋梗塞の可能性が高いとして決着した。

第3 運動
 最終盤まで運動らしい運動はなかったが、マスコミにはNHKのドキュメンタリーを始め、朝日の投書欄等しばしば登場し、事件の知名度は向かった。このことと、奥さんの頑張りおよび過労死問題の全国的な広がりが短期間での運動の高揚のベースとなった。
 このままでは業務外になりそうな気配が濃厚だった90年暮れ、要田さんから署名の取組と支援する会についての相談を受けた。いずれも理屈としてはわかっていても、果たしてうまくいくか疑問は大きかった。
ところが、彼女は朝三時過ぎまで宛名書きを続けて、あらゆる所へ署名用紙を送付し、また家族の会と奈良労連を通して岐阜労連の山田さんを紹介してもらい、会の発足にこぎ着けた。また岐阜労連の方でも真筆に問題を受け止め、わずか数週間で支援組織を発足させたのである。
 かくして、地元から監督署交渉が定期的な行われるようになるとともに、署名もわずか数カ月で2万6000余り、団体署名も264集まった。このことが監督署にさらなる事件の再検討を迫り、その結果、新たな有利な資料等も発見されて、勝利につながったのである。
 注目すべきは運動がいわゆる労連系だけでなく、連合しかも旧同盟系の組合まで巻き込んだことである(もっとも、単に監督署に幹部が電話した程度のことではあったが)。地域も岐阜だけでなく、奥さんの現住所の呉においては広交災が運動団体として強力に監督署交渉を行うなど各地に広がった。
 ただ、必ずしも各団体ごとの連携がうまくいったわけではない。本来弁護団がその接着剤の役割をすべきところ不十分だったことは充分に反省しなければならない。その点、岐阜労連の山田氏の寛容に深く感謝したい。

第4 決定と全体的分析
 91年7月29日、岐阜労基署長は業務上決定を行った。当日の説明は日常業務に比較しての特に過重な業務による心筋梗塞死であり、総合的的判断である、という簡単なものであったが、後に当方の要求に基づいた詳細な口頭説明があった。それによれば、
(1) 発症前日および前々日の発注ミス、味付け不良、機械トラブルなど事故が連続し、対応に追われたこと。
(2) 被災者および現場が重視し、要求していた装置の却下
(3) クレーム会議での上司からの厳しい叱責。しかもその日は不整脈が出て、体調不良なのに無理して出た会議であった。
(4) 現場作業の他、事務作業も相当あり、業務量が多かった(そのため彼は事務所と現場の双方に机を置いていた)。
(5) 食品会社として厳しい衛生管理下にあり、ストレスや反生理的な作業があった。
(6) 恒常的な長時間労働の実態があった。
 などである。
 結局、直前の労働の負荷(災害的ニュアンスを持つ事実)、作業の質と作業環境、業務量と労働時間など文字通りの総合判断であるが、特徴的なことは、あえて1週間の労働時間そのものにはそれほどこだわっていない点である。その分、災害的ニュアンスを持つ事実を列挙する((1)~(3))とともに、一週間以前の恒常的な長時間労働によって補強している構造となっている。業務上認定するときの監督署の心理ないし傾向を読むひとつのよい例として大いに参考になるのではなかろうか。
 結局、勝因としては、第1に、奥さんの頑張りによる詳細な同僚等の聞き取りによって、細かな事実をある程度出せたこと、第2に、細かな事実関係が不十分な部分についても、被災者の人柄が見えやすく、同僚の証言も合わせて、働きすぎの印象が強烈だったこと、第3に、前原博士によって、科学的な医証が作成され、監督署に大きな圧力となったこと、加えて第四に短期間ではあったが、岐阜労連をはじめとする運動の盛り上がりと署名、さらにはマスコミによって、世論を集中できたことを揚げることができよう。
 当事者、弁護団、医師、支援者それぞれの連携が結果的にはぎりぎりのところで何とかかんとかつながった結果の薄氷の勝利であり、学ぶべきものは多いと考える。
 なお弁護団は大阪は池田と高橋、岐阜は河合、矢島弁護士であった。
(民主法律211号 92権利討論集会特集号)

1992/02/01