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家族・子どもの視点から働き方を考える─単身赴任・過労死事件を素材に─ 平岡チエ子さんほか(民主法律時報251号・1992年1月)

(出席者)発言順
吉田 暢(東亜ペイント配転解雇事件原告)
服部信一郎(大阪労連事務局次長・アフター5の会)
丸瀬陽子(チェース・マンハッタン銀行配転事件原告)
平岡チエ子(全国過労死を考える家族の会)
樋口和子(朝日会場火災配転事件原告家族)
寺沢 勝子(弁護士)
(司会) 雪田 樹理(弁護士)

  

司会 本日は家族の視点から労働現場を考えるというテーマで、単身赴任や過労死事件の当事者・家族の方にお集まりいただきました。まず、自己紹介をお顔いします。
吉田 東亜ペイント争議団の吉田暢です。事件当時は2歳の子どもと女房、71歳になる母という家族構成でした。大阪から名古屋への転勤命令を断ったことで懲戒解雇の処分を受けました。「地裁の仮処分、本裁判、高裁と全部勝訴したのですが、最高裁で逆転差し戻しとなり、大阪高裁で昨年7月23日に結寮して現在判決を待っている状態です。
 差し戻しの裁判では不当労働行為が主な争点となったのですが、差し戻し前は配転の業務上の必要性と本人の家族構成からみて、転勤に応じられる内容であったかどうかが争点となり、差し戻し前の判決の基調は本人及び家族の精神的苦痛が大きく、業務上の必要性は薄いというものでした。ところが、最高裁では欠員の補充の必要性という一点だけで、業務上の必要性があるという不当な判断がされました。

服部 大阪労連事務局次長の服部信一郎です。現在、「アフター5の会」(略称)で「アフターファイブは自分と家族のもの」という取り組みをしています。教師をやっている妻と高校3年、中学3年の男子という家族構成です。

丸瀬 チェース・マンハッタン銀行の配転事件の原告の丸瀬陽子です。大学の非常勤講師をやっている夫と小学1年の長男、小学4年の長女、小学2年の次女がおります。転勤命令が出た当時は全員が小学生でした。
 チェース・マンハッタンはアメリカで、現在でも第5位の名門銀行ですが、営業悪化で全世界の従業員の約1割以上にあたる5000の人員削減を発表したのです。日本では1000万ドルの削減ということで、大阪支店の縮小人口理化計画で人員削減が図られ、転勤命令が出されました。最初は退職か転勤かの選択を迫られたのですが、結局、退職届けを出さなかったことが、転勤を受け入れたことになると解釈されて、10人の組合員に転勤命令が出されました。10人のうち9人が女性で5人が学童期の子どもを抱え、4人が病弱な、あるいは高齢な親を有するということで転勤命令を拒否し、地位保全の仮処分を申請しました。昨年の4月に却下されたのですが、著しい不利益は認めるが業務上の必要性を上回るものではないという判断でした。子どもがいる母親の場合でも、小学生ぐらいなら手がかからないんだから、家事を手伝えば母親の東京転勤も可能であるという決定でした。配転は異議を留めて受け入れることにしたのですが、3名の主婦が心ならずも退職し、7名が東京に赴任しています。また、不当労働行為ということで、地労委にも救済の申し立てをして、指名ストという形で裁判と両方の闘いをしています。

平岡 平岡チエ子と申します。88年に当時41歳で夫を過労死で亡くしました。当時、娘が20歳で息子が17歳、私が45歳でした。
 2月に亡くなった時、過労死という言葉は知らなかったのですが、仕事で死んだ、働きすぎで死んだということを監督署に訴えることを考えながら生活している時に、新聞で過労死110番のシンポジウムがあるのを知って、初めて過労死ということを知りました。
 その年の7月に労災申請をして、わずか10カ月で労災認定されたのですが、簡単に認められるほど過酷な労働実態だったのかと思い、逆に悲しくもありました。現在、会社を相手に損害賠償裁判をしています。

樋口 樋じ和子といいます。裁判をおこしたのは朝日火災で働く夫です。88年3月に金沢への異動命令が出て、異議を留めて配転に応じ、6月に提訴しました。地裁・高裁と完全勝利しましたが、会社が上告して現在最高裁にかかっています。
 当時、子どもは小学校2年生と4年生で、夫の母親も同居していました。
 昨年6月に8年2カ月ぶりに転勤となり、同居ができるようになりました。

寺沢 弁護上の寺沢勝子です。昭和63年に近畿弁護士連合会で、「雇用と人催」という長時間労働の問題と単身赴件の問題を、家族の権利の側から捉えたシンポジウムに取り組み、昨年11月の日弁連の人権人会では「子どもたちの笑顔が見えますか」ということで、子どもの権利条約との関連で家族・福祉・教育・少年司法を取り上げたシンポジウムを行いました。子どもの権利条約の中では、子どもは家庭の中で成長発達をする権利があるのだということを明確に定めたうえで、国はそのために家族に対して援助をしなければならないと定めているのです。子どもの成長発達権をどう保障していくのかということは、大人の働き方をも問うものであり、労働政策として国は家庭に対して援助しなければならないと決めているわけです。子どもの側から、大人の働き方に対して問題提起をしていく必要があると考えています。

子どもに与える重大な影響

司会 事件を通して、家族の問題、子どもの問題、夫婦の問題などで苦労していることや悩んでいることがありましたら、率直に出していただきたいのですが。

丸瀬 実はつい最近、中学生の長男が2回はど家出をしたんです。近くに住んでいるおばあちゃんのところへ、「僕、考えてることがあるねん。今日は家へ帰らへんからなぁ」と電話があったそうです。友だちの家に行っていたみたいで2時頃には帰ってきたのですが、父親との関係がうまくいかなくって、私もいないために怒られたりしたことのはけ口がなかったようです。すごくショックでした。また、東京から電話をした時には私の話を聞いているだけであまり喋らないのですが、東京から帰ってくると私が横に座らないと勉強しないということもあるのです。私が帰ってくると洛ち着くようで、やっぱり母親を求めているのかなぁと思うのです。
 長女は、自分をあまり出さずに自分の殻に閉じこもっている感じです。手紙で「お母さん東京行くのいやだった? 私はお母さんに東京に行ってほしくなかったけれども、お仕事だから仕方ないね」と書いていたんです。自分で納得させている感じで、話す言葉も少なくなってきていて心配しているんです。
 一番下は七歳で、ストレートに「今度いつ帰ってくるの」と聞いたり、当初は、行く前になると「いかんといて」とすがりついて来てたんです。ところが、半年たった時期に、私が出て行く時に扉お母さん、私、お母さんのことを死んだと思うわ」と言ったんです。そうやって私がいない事を自分で納得させているんだと思って、それを聞いた時は本当にすごいショックでした。

司会 それでも退職せずにがんばっていらっしゃるのは、どういうお気持ちからですか。

丸瀬 争議を続けるのは相当迷ったのですが、夫の仕事が大学の非常勤講師ということもあって、その援助でやれている面があるのです。ただ夫についても、付き合いを全部断らなければならないとか、新しい仕事を引き受けられないとかの負担をかけているんで。いつもやめようか、続けようかというジレンマを持ちながら、運動が広がる中で大阪に戻る実績を作って、女性が働く権利を守りたいという気持ちで頑張っているんです。

吉田 転勤命令が出た時に妻と徹夜で相談したんですが、高齢の親がおり、また、妻が保母の資格を取りながら共同保育所の運動に携わろうとしたばかりの時期だったので、解雇を覚悟して裁判で闘うことに決めたんです。妻はその時、働きながら姑の面倒をみるのは自信がないということを言っていました。結局、私は単身赴任をしていないので、嫁と姑の関係でも双方の話し相手になってやることができたんですが、放っておいて解決できない問題のように思いましたね。

樋口 最初の1年は、やはり子どもに動揺があったんですが、子どもの変化は私自身の動揺が伝わったのだと思っています。それまでは姑との関係で、夫がいたので言いたいことを言っていたのですが、中に入って聞き役になる夫がいなくなってからお互いに言いたいことが言えなくなり、結局、別居という形になってしまったんです。このことが原因で夫の兄弟との間の関係もしっくり行かなくなってしまいました。
 私の場合もやはり子どもに変化が出ました。下の子は小学校2年生でクラス替えがあってから、「今日はしんどい」とか「お腹がいたい」とか言い出して、登校拒否になったのです。上の子は小学校5年生だったんですが、喘息の発作をおこしたんです。医師からは父親の単身赴任が大きな原因になっている、心身症だと診断されました。夜中に発作が起こって救急卓で病院に連れていったり、一晩中背中をさすったりということが続いて、仕事に行くのがつらいと思ったことが何回かありました。組合の仲間の支えがなかったらやっていけなかったと思います。
 夫がいなくなって、子どもは両親に育てられる権利があるということをつくづく実感しました。死んだとか離婚したとか、子どもが納得できる理由であれば、「子どもは自分で解釈して乗り越えていけるんです。居て居ない状態というのは子どもには非常に残酷な状態です。死んだと思うわといった丸瀬さんのお子さんの話は本当にその通りだと思いました。子どもにしたらそう思わないと、やってられないと思います。

平岡 夫の労働時間は、3500から4000時間ということで計算が合わないんですね。日曜日も祭日も働いて計算が合うんです。そんな長時間労働の中で長女で苦労しました。長女が小学校の時、父親不在の家庭は子どもが遊ぶ姿を見ていたらわかると言われ、やっぱり父親の代わりはできないと思いました。長女が夫の働かされ方を理解したのは、高校になってからでしたが、娘が、下の子が高3になったら家族旅行をしようと説得したときも、結局、夫にはお前らで行ってこいと言われて実現しなかったのです。家族旅行というと4年に1回の里帰りだけで、それもだんだん夫とは入れ替わりの里帰りになって、ますますひどい状態になったんですけど。
 亡くなった時も、子どももお父さんが働きすぎで死んだということに少しも疑問を感じなかったようです。日曜日の出勤も当たり前で、父親のいない生活というのが当たり前でしたから、お父さんが毎日家に早く帰ってきて、日曜日もいたらどんな生活だったのか知らないままなんです。

寺沢 丸瀬さんも言っててましたけど、子どもはどこかの段階で「付かないでほしい」と思ってたと思うんですね。だけど言っても傷つくから、親との関わりでも傷つかないように防衛して振る舞うのですね。子どもは思いがかなわないと、だんだん自分が傷つかないように気持ちを作ってしまうところがあるのです。こういう状態は、本当の意味での子どもの成長発達から見てどうなのか、という問題があります。子どもが(自分の気持ちを)出せてる間はまだマシな方で、出せなくなったら本当に心配ですね。丸瀬さんの死んだと思うというのも同じですね。

今後求められる人権問題の取組み

司会 労連ではこういった問題について、どのような取り組みをしていますか。

服部 これからは闘う労働組合でも、家庭や子ども、地域の視点で全国民的な取り組みをしていく必要があると考えています。これまでは賃金とセットで闘って、賃金をとったら労働時間は後回しにするという状況でした。今、アフターファイブの会で提唱しているのも、何を失い続けているのかということを、もっと男が職場の中や外で言っていく必要があるということです。そのことに気がつきはじめないと労働時間、人権にかかわる問題を実際に労働者の要求と結合した形での闘いができないですね。
 湾岸戦争の時、昼間に大人のいないところで、子どもたちだけでテレビで実況中継される戦争を見ている状態をみて、もっと子どもサイドで家族と労働の問題を取り組まないといけないと思いましたね。そういう意味で、労働組合が子どもの権利条約問題への取り組みをもっとしていくことが大変大事なことだと痛切に思っています。
 職白連と労連が共同して、昨年秋に行ったアンケートを見ても、広範な人が人権という意識をもっていることがわかりました。個々人のところでは、働き方、生活のあり方、社会活動への参加の仕方等、それぞれの入り口が違っても、人権の問題を個々に感じており、変革の可能性があると思っています。

労基法改正と-LO条約の批准を

樋口 アフターファイブの運動への共感は確かに広がっていますが、会社から与えられる仕事の量は時間内で処理できなくなっています。企業の儲ける権利を法律で規制していかなくては、過労死は必然的に起こると感じています。

服部 アフターファイブの会のような、意識を変えるための運動と法律改正の法制化を進める運動が必要だと考えています。
 労連でも週休2日制を実施させる等の労基法改正案を作って、92春闘でも取り上げ、国民の過半数の署名をとることをめざしているんです。先日、暉峻淑子さんに どうして日本では36協定をなくす運動ができないのかと痛烈に批判されたんですが、本人の同意なくしては残業させられないという状況ができるまでは、36協定を締結しないというくらいの運動をしていくことが重要だと思います。職場の闘いと法制化を結びつけていくことが重要だと思います。

寺沢 大学で講義をしていて、学生から、どうしてみんなが働くのに、学校教育で働く人を保護する法律を教えないのか」という疑問が出されたんですが、本当にもっともだと思うんです。
 また、ILOの家族的責任条約では、家族的責任問題をもっている労働者と、そうでない労働省は差別されないということと、家族的責任を果たせるような労働条件を作らなければならないということも定められているんです。こういった条約の批准運動というのも人切だと思います。

 このあとにもたいへん有意義で興味深い雑談(?)が続きましたが、字数の関係上、割愛させていただきます。進行が上手にできるか心配していたのですが、座談会が始まると、参加者の方々からたいへん重みのある発言相次ぎ、感動、感動の連続でした。皆さん、どうもありがとうございました。(司会)
(民主法律時報251号・1992年1月)

1992/01/01