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過労死事件の支援を受けた遺族の思い 国立循環器病センター看護師村上過労死事件原告 村上加代子(民主法律272号・2008年2月)

国立循環器病センター看護師村上過労死事件原告 村上 加代子

 私が裁判をする事になったのは最愛なる娘を25歳の若さでなくした事からです。
 娘、優子は大阪にあります国立循環器センターで看護師としておりました。
 入職をして3年10ヶ月目の2001年2月13日、勤務終了後に頭痛に見舞われ突然倒れてしまいました。
 脳動脈瘤破裂によるくも膜下出血で自分の働いている国立循環器センターに搬送され手術を受けました。
 回復してほしいという私たちの願いも虚しく、倒れて25日目の3月10日、親の私たちよりも先に25歳の若さで生涯を閉じてしまいました。
 とても残念で悔やまれてなりませんでした。今も倒れた当時の優子のことは私の頭から離れません。

 私は娘の四十九日が過ぎて、国立循環器センターの看護部長さんのところへ挨拶に伺った際に、娘は働きすぎではありませんでしたか?と話したところ、後日書面にて残業は月16時間余りで、休暇の過ごし方に問題があったのではないでしょうか。と、厳しい返事でした。

 一人暮らしをしていた娘が休日にせっかく自宅に帰ってきても、勉強会や話し合い、委員会があると言って家族と一緒に夕食をとることも出来ず職場へと帰っていく後ろ姿を見送っていたことを思い出し、優子は残業や休日を削ってまで働くことに誇りを持ち懸命に働いていたのにも関わらず、休暇の過ごし方に問題があると冷たい言い方をするような職場では、また娘と同じように犠牲者が出るのではないか、二度と私達のような悲しい思いをしてほしくないという思いから裁判を行うことを決意しました。   

 でも裁判を決意しても何をどのようにしていくか全く分かりませんでした。
 最初は市の法律相談で弁護士さん2名の方と話をしましたが、娘の働いていた病院にはタイムカードやICカードがなく、証拠となるものもないので裁判を行うことは無理ですと言われていました。
 数日後に新聞で過労死110番が私の目にとまり、電話相談して話し合いの結果裁判に取り組むこととなりました。当初弁護士さん3名でスタートいたしました。
 私は今までに新聞やテレビなどの報道でも過労死という言葉に深い関心を持っていませんでしたし、まさか自分が過労死で裁判に取り組んでいくなど想像もしていませんでした。もちろん今まで弁護士さんと話す切っ掛けもありませんでしたので、お会いして話すということだけでも、とても緊張をしておりました。
 また裁判をどのように進めていくかも全く分からず、心配と不安と戸惑いで話しにいく前から重圧感がありました。大阪過労死家族の会に入れて頂き、月1回の定例会があり、同じような体験をされた方や遺族を支える支援の方々の集まりで、裁判の勉強をしたり、助け合い励まし合い、共に裁判を闘うことで勇気づけられています。

 それから弁護士の岩城先生より、裁判を行うにあたり、国を被告として裁判で闘うことは難航するであろうと思われ、当初弁護団は3名でしたが、2名加わって頂き5名で行うこととなりました。さらに、国立循環器病センターに組合がないことから、大阪医労連と全医労連などに支援をお願いして頂きました。

 平成14年7月30日 大阪医労連、全医労連、国公、大阪労連の4つの組合団体による村上優子の過労死認定裁判を支援する会を結成して頂きました。
 私は大阪城北市民病院で看護師をしていた時に、組合活動に参加していたことがありますが、医労連や全医労連などの組合があることを知りませんでした。
 また組合の方に裁判に協力して頂けることも知りませんでした。
 そして私の裁判に協力支援して頂けることが決まりましたが、支援をして頂けることにいつも申し訳ないと思っておりました。
 組合の方は優子だけの問題ではなく、看護師全体の問題で国公立を始め色々な病院や医療現場で優子と同じような働き方で、不規則な夜勤交代制勤務と時間外労働、サービス残業が恒常化しており、いつ自分たち看護師が倒れてしまうかもしれないという思いで協力と支援をしてくださるとのことでした。多忙な中を申し訳ないと思うと同時に、私は初めてのことばかりで心配と不安で一杯でしたが、支援をして頂くことで気持ちが軽くなりました。

 平成14年6月5日 国立循環器病センターで厚生労働省に対し公務災害認定請求を出しました。
 平成14年7月31日 国を被告とする損害賠償請求訴訟提訴いたしました。
 この時から、支援の方が供に行動して頂くことになりましたが、他にも仕事がありながら私たちの為に時間を問わず協力して頂くことにとても遠慮しておりました。
 平成14年10月 大阪地方裁判所において弁論が始まりました。支援の会からと過労死家族の会の方も一緒に傍聴して頂くことで心強く勇気づけられていました。
 平成16年5月20日 厚生労働省より労災認定で公務外が出されました。
 再度公務外の認定不服申請を提出しました。
 平成16年10月25日 大阪地方裁判所にて過労死に至るものではないと不当判決が出されました。
 平成16年11月5日 直ちに大阪高等裁判所へ大阪地裁の不当は判決に対し控訴いたしました。
 平成17年5月25日 厚生労働大臣の公務外認定取り消しを求める行政訴訟を大阪地方裁判所に提訴しました。
 平成17年11月25日 人事院より公務外認定不服請求が棄却されました。
 平成19年2月28日 大阪高等裁判所の判決で再び不当判決でした。
 平成19年3月28日 最高裁に上告いたしましたが19年10月23日最高裁より上告を受理しないと棄却されました。
 以上のような経過で、闘いの中裁判で弁護団と支援の方々に私たちは惜しみない尽力をいただいてまいりました。
 またホームページやリーフレットを作成して頂いたり、毎回の弁護団会議へ同席して頂き、必要な書類があれば集めて頂いたこともあります。厚生労働省への交渉にも東京まで数名の方と一緒に行動して頂き支えてもらえたりもしました。裁判の時は大阪地方裁判所や高等裁判所に大勢の人たちと供に毎回傍聴して頂き、とても心強くありがたいと思っておりました。
 また白衣姿で裁判所周辺での宣伝行動をして頂きました。それから国立循環器病センター前や北千里駅前での宣伝行動は朝も早い7時から寒い中行動して頂き誠に申し訳なく頭が下がる思いでいっぱいでした。
 循環器病センター付近の住民宅へ一軒一軒パンフレットを6500部配布して回って頂いたこともあります。とてもありがたいことでした。
 署名において私は色々な組合大会や集会で支援と署名のお願いの訴えをさせて頂きました。ただこの訴えは私にとって難題でした。人前に立って話をする事になれず頭の中は真っ白になり自分で何を話しているのか分からなくなってしまうからです。
 また裁判の経過報告と供に署名用紙を支援の方に500通以上の配送を何度もさせて頂きました。おかげさまで私たち家族だけでは到底かなわない数の署名を集めて頂きました。
 厚生労働省に個人70115枚、団体595枚
 大阪地方裁判所に民事では個人38100枚
 大阪地方裁判所へ行政では個人28949枚、団体109枚
 最高裁へ3万余りと合計で個人が197787枚、団体で1862枚と北海道から沖縄まで全国から送って頂きました。とてもありがたく感謝しております。

 大阪地方裁判所において民事で敗訴した時も、看護業務の過重性や不規則な交代制夜勤の過酷さが裁判所に理解されていないのではないかと、看護師さんの多忙な中一言メッセージをよせて頂き裁判所へ提出できました。
 また夜勤交代制による血圧の悪影響が長期間に及ぶことを具体的にデーターに基づいて立証する為に看護師さんに、日勤→深夜→休日のパターンで連続72時間の血圧測定をして頂きました。脳神経外科の先生には意見を作成していただき裁判所へ提出することができました。

 本当にまだまだ数えきれないほど皆様より暖かい支援を頂いて励まされて力と勇気を頂きました。娘を亡くしたことは言葉では言い表せないほど悔しく悲しい辛いものがありますが、これまでの闘いで認められずくじけそうになりながらも、約7年間も裁判をつづけることができたのは皆様のお陰と思って心より深くお礼申し上げます。娘が支援の皆様に会わせてくれたのではないかと思っております。
 今の看護現場は本当に厳しくなっております。どうしてもこの裁判で勝利して医療現場の改善に繋がることを願って最後まで闘いたいと思います。どうぞ最後までよろしくお願いいたします。

(民主法律272号・2008年2月)

2008/02/01