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研修医は労働者―大阪地裁堺支部で初判断― 弁護士 岡崎守延(民主法律時報352号・2001年9月)

弁護士 岡崎守延

一、二○○一年八月二九日に、大阪地方裁判所堺支部で研修医の身分に関する先例的判決が出ましたので、報告します。
二、この事件は、まず「研修医の過労死」として提起されました。
 一九九八年三月に関西医大を卒業したMさんは、六月から研修医として、そのまま関西医大病院に勤務することになりました。
 「病気で困っている人を助けたい」という思いを胸に、希望に燃えて医師としての生活をスタートしたMさんでしたが、研修医の置かれている実態は想像を絶するものでした。
三、Mさんの研修医の勤務は、午前七時三○分の「点滴・採血」から始まって連日午後一一時頃まで続きました。手術の日には、明け方の四時頃迄立会い、そのまま午前七時三○分から勤務につくという状態でした。昼食も、勤務の合間を縫って取る状況で、ゆっくりと食事できる様な時間は全くありませんでした。
 これに「副直」(夜勤)が組み込まれますが、「副直」も当日の勤務を終えてからそのまま泊まり勤務に移行し、翌日はまた午前七時三○分からの通常勤務に就くというもので、「明け番」などは全くありませんでした。
 そして、全く信じられないことですが、これだけ働いて、Mさんの一か月の給料はわずか六万円でした。
 また、雇用保険も健康保険も、何もない状態でした。
四、この様な激務の中で、一九九八年八月一七日の朝に、Mさんが自宅の居間の電話の前で、前夜に帰宅したままの服装で倒れているのが発見されました。
 Mさんは既に亡くなっていました。急性心筋梗塞症でした。
 二六歳の、余りにも早い死でした。
五、 両親には、Mさんの死因が、病院での働き過ぎ以外には考えられませんでした。改めて、病院の関係者から、Mさんの勤務の状況を聞く中で、過労死との確信に至りました。
 両親は、Mさんの過労死に対する病院の責任を問う為に、損害賠償請求の訴訟を提起しました。病院はこれに対し、「研修医は労働者ではない」などという信じ難い言い分を出して、争い続けています。
六、 両親の追及は、更に続きます。
 まず、Mさんの給料が月額僅か金六万円と、大阪府の最低賃金にも満たないことから、最低賃金額と金六万円との差額を未払賃金として請求する訴えを提起しました。
 続いて、病院がMさんを私学共済に加入させていなかったことから、両親は遺族年金を受給できず、これによる損害賠償の訴えを提起しました。
 今回判決のあったのは、この二つの事件です。
 実は、Mさんのお父さんは社会保険労務士で、これら二つの請求は弁護士では中々出てこない発想と言え、このお父さんあってこその訴訟と言えます。
七、この両事件でも、病院は同様に「研修医は労働者ではない」という答弁を繰り返しました。
 これによって、この両事件の、最大にして殆ど唯一の争点は、研修医の身分、即ち研修医の労働者性に尽きることになりました。
八、そして、大阪地裁堺支部は、二○○一年八月二九日に、「研修医は労働者である」と明快な判決を下しました。
 恐らく、研修医の労働者性を認めた初めての判決と思われます。
九、弁護士とすれば、この両事件は過労死の損害賠償請求事件の「前哨戦」という受け止めでしたが、事件の進展の中で、これ自体が極めて重要な意義をもつ事件との認識に至りました。
 即ち、本件のMさんに限らず、全国に約一三、○○○人と言われる研修医は、程度の差こそあれ、非常に不十分な勤務条件を強いられています。
 そして、これは研修医のみに止まらず、実は広く医者一般にも言えることが分かりました。
 国民が良好な医療を受けるには、研修医、医師が治療に専念できる環境が不可欠と言えます。
 この事件は、この様なことを、広く世論に訴えかけている事件と言えます

2001/09/01