ダンプ運転手くも膜下出血事件 弁護士 脇山 拓(民主法律211号・1992年2月)
弁護士 脇山 拓
一 被災者のMさんは、協和土木というところで10トンダンプの運転手として働いていましたが、1989年12月19日に現場で土砂の積み込み作業中にくも膜下出血などで倒れました。幸い一命はとりとめましたが、視野欠損等の後遺症が残っています。
Mさんの勤める協和土木は、主に土砂やアスファルト合材を下請けとして運ぶ仕事を行っています。運転手は社長から仕事の割当を受け、指示された現場にいって仕事をこなします。昼勤から戻るとその日の夜勤が指示され、引き続いて夜勤を行うことも当たり前のようにあります。そして、夜勤明けも引き続いて昼勤を行うのです。
Mさんの業務が非常にきつくなったきたのは、89年の11月頃、大阪空港での誘導路新設工事が入ってきてからです。空港の仕事には、空港内での工事作業と、その工事で出た土砂を捨てにいくという2種類の仕事がありました。空港内での工事は、当然のことながら飛行機の発着の終わった夜間に行われます。夜の間だけで、突貫工事で行うために、1時間休憩があるだけで、夜9時から朝の4時頃まで一晩中走り回らねばならず、大変にきつかったそうです。土砂を空港から亀岡の方まで捨てるという仕事も、道路事情との関係から朝5時頃から走りだして、夕方までに4往復するというもので、休憩時間も少なく、道が狭く渋滞するのでしんどいものでした。
こうした業務をMさんは昼夜連続勤務をしながら、発症前2カ月間1日の休みもなく働いて、過労によって倒れたのです。
二 これは労災に違いないとMさんと家族は考えました。しかし、労災申請をするというMさんに対して、会社は当初は労災申請の書類への押印すら拒否。申請後も労基署への資料提供を拒否しました。
三 そこで弁護団は裁判所に、作業日報などの証拠保全を申し立てました。裁判官による証拠保全に対しても、社長は猛烈に抵抗していましたが、裁判官の熱心な説得もあって、作業日報などの貴重な資料を入手することができました。
四 この作業日報によって、Mさんの業務内容がほぼ把握できました。弁護団は更にMさんの業務は、手待時間がほとんどない過酷なものであったことを立証するために、本人から詳細な聞き取りを行うとともに、空港亀岡間の走行実験を行いました。
この結果、本人の供述に間違いがないことが確認されたのです。
五 91年10月2日付けで、Mさんの発症は業務上のものと認定されました。
認定の理由について労基署の担当者は「直前に突然的な異常な出来事といえるものはないけれども、2カ月間休みがないこと、昼夜連続勤務、とりわけ発症前に4日聞達続で昼夜連続勤務をしていること、発症当日は気温がひくかったこと、等を総合考慮して、過重な業務に従事したものとして業務上の発症と認定した」と説明しています。
いまだ災害主義の発想から抜け出していないという限界はあるものの、新認定基準の過重負荷主義を活用した認定であることは評価できるでしょう。
六 正直な話、当初は弁護団自身も、こんなに働けるはずがない、どこかで休んでいたのではないかという疑惑を持っていたのですが、事実調査をしていくにつれて、Mさんの陳述が嘘ではないことが確信でき、労基署交渉にも自信を持って望むことができました。また、裁判所も使った資料収集で、十分な裏付け資料を揃えることができたことも大きかったです。
しかし、これだけ過酷な労働が、ぎりぎりひっかかった形認定されたということで、改めて認定基準の狭さ、不合理さを感じさせられた事件です。
(民主法律211号 92権利討論集会特集号)
1992/02/01