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過労疾患「N事件」勝利報告 弁護士 鎌田幸夫(民主法律226号・1996年2月)

弁護士 鎌田幸夫

一、事案の概要
 Nさんは、昭和61年7月よりフランス料理店のコック(セクション・チーフ)として稼働していた。そして、冷蔵庫(温度0~5度)に1日10~20回、冷凍庫(温度マイナス15~20度)に同じく3~5回防寒具なして出入りしていた。
 昭和62年1月~3月にかけて労働時間が増加、3月は売上高が急増し、加えて3月13日に副チーフが退職し、業務量が過密になった。
 昭和62年3月30日夕方から頭痛を訴えながら、夜9時半~11時のフランス語の勉強会に出席。翌3月31日午前11時に出勤し、正午から勤務に就いたが、冷蔵庫に入って出てきた直後に、激しい頭痛に襲われ意識を失って倒れ、病院に運ばれたが、脳動静脈奇形の破裂により下半身麻痺の障害(1級相当)が残った。
 なお、Nさんは当時27才の若さであった。

二、認定までの経過
 Nさん本人が大阪中央労働基準監督署に労災申請を行ったが、平成元年3月29日不支給決定がなされた。平成元年6月2日大阪労災保険審査官に審査請求、その後過労死連絡会で弁護団編成をし(豊川義明、岩城穣、山本勝敏、鎌田幸夫)、平成4年4月業務の過重性を調査のうえ意見書を提出、同6年6月には田尻俊一郎医師の意見書を提出し、審査官交渉を行った。
 平成7年に入り、審査官が交替し、同年11月30日業務上の決定がなされた。

三、業務上決定の概要
 「労働時間については、発症前1週間について過重とまではいえないが、所定拘束時間を3時間30分以上越える日が6日のうち4日あるところから、認定基準でいう 『日常業務を相当程度超える』ものに該当すると判断され、そのさらに前3週間をみても、同じような状態が続いていた」「発症直前の1週間は、それまでの3週の各1週間に比べて、客数において1・5倍、売上高において1・6倍となっており、業務量において5割増程度の過重性があった」「発症の半月前には、副チーフ格の者の退職により、その者が分担していた部下の指導や責任等か加わり、また4名で行っていた業務量を3名で行わなければならなくなり、過重となった」「平均1日に、冷蔵庫に10~20回、冷凍庫には5回、それぞれ1回に3分ぐらい防寒着なしで出入りしていた」「以上の事実と医証を総合勘案して、基礎疾患である脳動静脈奇形をその自然経過を超えて急激に著しく増悪させたものであり」「日常業務に比較して、特に過重な業務に就労したことに該当する」

四、決定の意義
  本件は、「発症1週間より前の業務が、発症1週間内の業務が日常業務を相当程度超えている場合には認定にあたり考慮する」とした1995年の新認定基準を適用して業務上認定した決定として大きな意義がある。

 すなわち決定では、所定拘束時間を3時間30分以上超える目か6日のうち4日あることを認定基準でいう「日常業務を相当程度超える」ものに該当するとしたうえで、さらにその前の3週間が同様であるとして「発症前4週間にわたる長時間労働があった」とし、業務上認定の大きな理由としており、今後の参考になると思われる。

五、認定が勝ちとれた要因
 1 本件は、請求人の妻か監督署に労災申請をした際、「無駄だからやめるように」との趣旨の示唆を受けたり、弁護士が審査請求段階で意見書作成にあたり、関係者から事情聴取をした際、「こんなのが労災になるんですか、あなたがたはどういうつもりでやっているんですか」などと言われるなど決して容易な事案ではなかった。
 それにもかかわらず、審査請求で逆転の認定か勝ちとれた経緯は次のとおりである。
 弁護団が当初の担当審査官との交渉をしていた時期は、感触は必ずしも良いものでなかった(当初の担当審査官は業務外の心証を持ち、その方向で決定書を準備していたようである)。それは、やはり監督署段階の鑑定医の業務外の意見書の影響が大きかったものと思われた。
 そこで弁護団は、既に提出していた主治医の業務上の意見書の他に専門の産業医の意見書が必要であると判断し、田尻先生に無理を言って書いて頂いた。そうして弁護団が平成6年4月に意見書を提出したところ、審査官も決定を延期し、再鑑定をする旨述べた。そして、右鑑定の結果を待っていたところ、平成7年になり、担当審査官が交代し、かつ、前述のとおり、認定基準が改められた。そして、平成7年7月25日の再鑑定では、「本件疾病を完全に業務外とすることはできない」との意見が出され、また交代した審査官の労働者救済に向けての積極的な姿勢もあり、逆転の認定につながったのである。
 このようにみてくると、本決定は、審査官の交代、認定基準の見直しなどの「幸運」に恵まれたものとも言える。しかし、その「幸運」を呼び込んだのは、最後まで諦めずに、田尻先生の意見書を提出するなどやるべきことをやったからである。仮に、平成6年4月に意見書を出さなかったら、同年度中に審査請求棄却の決定が出ていたであろう。
 どんな困難な事案であっても、やるべきことをやり切ることがいかに大切なことであるかをあらためて教えられた事案であった。
 しかし、それにしても、昭和62年3月に倒れて、平成7年11月の認定まで約8年8ケ月の歳月が超過してしまった。あまりにも長過ぎる歳月だ。その間の幼い子供さんを抱えられているNさん一家の生活の大変さはいかばかりであったろうか。私がNさんの奥さんに逆転の認定を電話で知らせると、「本当ですか。うそみたい」「じゃ、主人が倒れたことは、これからは(単なる私病ではない)労災であったということになるんですね」と喜んで頂けたのが救いであると共に、担当弁護士としても本当に嬉しかった。
(民主法律226号・1996年2月)

1996/02/01