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三井生命過労死事件 弁護士 増田 尚(民主法律253号・2003年8月)

弁護士 増田 尚

   三井生命高松支社丸亀営業所所長であった渡邉一洋さん(享年30)が死亡しているのを発見されたのは2000年8月28日のことであった。25日に支社で行われた所長会議で、一洋さんは、丸亀営業所で半数の職員が契約成果を挙げていないことを指摘され、月曜日である28日までに全職員が成果を挙げるよう指示された。一洋さんは、土曜日の26日も出社し、同期入社の社員に、「今までで最大のピンチ!なべちゃん泣きが入っています!」と愚痴ともつかぬメールを送るほど、職員が成果を挙げていないことに悩んでいた。日曜日の27日は、早朝から、職員とともに、顧客獲得のために英会話学校のティッシュ配りをする予定であったが、姿を表すことはなかった。翌28日になっても出社しなかったことから、職員が自宅を訪問したところ、横たわり息をひきとった一洋さんを発見した。推定死亡時刻は27日未明で、死因は虚血性心疾患と診断された。
  一洋さんは、7月に初めてのお子さんをもうけたばかりで、妻の洋子さんは、そのころ、実家にて静養していた。お子さんは、産後直後とお盆のわずかな間、父親と顔を合わせることしかできなかった。

 異常なノルマ主義と長時間過密労働
  三井生命をはじめとする生命保険会社は、異常なノルマ主義で職員の競争をあおり立て、莫大な利益を得ていることはよく知られている。過大なノルマを達成するため、職員が保険料を自ら立替払いをして顧客とトラブルを起こしたり、多額の負債を抱えている事実は、弁護士ならずとも往々にして見聞するところである。
  一洋さんが丸亀営業所(当時は、さぬき営業所)に赴任したのは1997年10月のことであった。前任の営業所長のもとで成績が振るわず、いわば再建を嘱望されての異動であった。
  一洋さんは、営業職員から所長になった「たたきあげ」ではなく、キャリアコースから配転された所長であった。そのため年若く、歴年の営業職員を指導・管理することには、相当の苦労と悩みがあったであろうと想像される。その上、営業職員の業務は、毎月設定されるノルマを達成するために、日々、職員を指導して成績を挙げさせ、新規・更新契約・解約の管理と支社への報告、保険料立替払いなどトラブルから、成績が挙がらずにすぐに退職する職員への慰留、職員の新規採用など人事上の問題まで、多岐にわたっていた。そういうなかで、一洋さんは、職員を叱咤激励しつつ、月々の目標をクリアーし、丸亀営業所を建て直していった。
  しかし、そうした努力がいっそう一洋さんを苦しませることになった。というのも、毎月の目標は、前年度の実績に対し何パーセント上回る数値という形で設定されるため、成績を挙げれば挙げるほど、ノルマが強化されるという異常なものであった。
  このような過酷なノルマを達成するためには、必然的に、残業・休日出勤をしなければならない構造であった。もともと、営業職員は、顧客の生活リズムに合わせて行動するため、昼は法人や主婦を対象に訪問し、サラリーマンなどについては夜の終業後や土日に自宅に訪問することが多い。所長は、その結果の報告を職員から受けてから、職員に対し点検とアドバイスを行い、その後に当日の成果をまとめ、支社に報告し、はじめて当日の業務が終了する。そのため、日常的に夜間の残業や休日出勤をしなければならない。また、目標未達成ともなれば、支社から檄を飛ばされ、営業職員とともに休みなく目標達成に邁進させられるのである。
  一洋さんが亡くなった2000年8月は、保険月である前月(7月)に尋常でない目標を達成するために、それまでの「ストック」をはき出してしまうことから、いきおい契約も伸び悩んでしまう。その上に、お盆・夏休みのため職員、顧客ともに休みのことが多いなど、不利な条件が重なっていた。そのため、半数の職員が一つの契約も挙げられず締切日を迎えることとなった。一洋さんは、帰社する前後に、実家に帰省していた妻に電話をかけていたが、その発信履歴によると、亡くなる直前の一週間は、早くて午後九時過ぎ、遅い時は午後11時を回っていた。このような長時間にわたる過密労働が一洋さんの健康を損なっていたであろうことは想像に難くない。
  しかも、一洋さんは、十代のころから、高血圧症を指摘され、降圧剤の投与などの治療を受けており、会社も採用時や毎年実施する健康診断によって、その事実を把握していた。にもかかわらず、一洋さんを過酷な営業所長というポストに置き、何ら健康管理上の配慮をとらずに、長時間過密労働を強要したのである。

 会社の非協力的な態度
  妻の洋子さんは、一洋さんが亡くなるまでの労働時間及び業務内容を知ろうとして、営業職員や支社に情報提供や資料の提出を求めた。しかし、当初は快く事情を話してくれた営業職員も、「会社から答えないように言われている。」として口を閉ざすようになってしまった。支社も、心電図結果などのごく基礎的な資料の提供さえ拒否し、真相の究明を妨げた。一人の従業員を死に追いやっておきながら、自らの責任回避というきわめて卑小な動機から、亡くなった原因を確かめたい、亡くなったことに対する報いを遂げたいと願う遺族の心情を逆撫でする不誠実な対応には怒りすら覚える。  やむを得ず、洋子さんは、2001年11月、高松地方裁判所に証拠保全を申し立て、高松支社に保管されていた心電図結果や営業所の月別成績表などを検証した。

 労災申請、損害賠償請求で真相究明へ
  2002年5月には、高松労基署に労災申請をした。また、2003年4月15日には、一洋さんが高血圧症など健康上の問題があることを知りながら、漫然と過酷な営業所長職として処遇し、健康に配慮することなく、長時間過密労働をさせて基礎疾患を増悪させ死亡に至らしめた安全配慮義務違反を理由として、三井生命に対し約1億4000万円の損害賠償を求める訴訟を大阪地裁に提起した。会社側が労働時間の管理を怠り、タイムカードを置かないなど、労働時間の把握が困難な中、過労死させるほどの長時間過密労働であったことをどう立証するのか、当該業務と基礎疾患の増悪、死亡との因果関係などが争点となることが予想される。
  7月7日の第1回口頭弁論にて、洋子さんが意見陳述を行い、生後55日で父親を亡くしたお子さんが3歳の誕生日を迎えたこと、お子さんがすでに父親の不在を理解しており、父親の死の疑問に答えるためにも、この裁判で真相を明らかにしたいと訴えた。会社は、これ以上の情報隠蔽を止め、一人の従業員を死に至らしめるほど過酷なノルマ主義を行ってきた責任を自覚し、相応の償いをすることが求められている。
  本労災・訴訟には、証券・保険などの金融業界で働く仲間や、過労死遺族の会などから多数の応援をいただき、「三井生命・渡邉一洋さん過労死事件労災認定と裁判闘争を支援する会(仮称)」が発足するはこびとなった。みなさんのご支援、ご指導により、三井生命の社会的責任を追及していきたい所存である。(弁護団は、村田浩治、増田 尚)
(民主法律253号・2003年8月)

2003/08/01