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西原過労死事件全面勝利解決 弁護士 山崎国満(民主法律251号・2002年8月)

弁護士 山﨑国満

一 はじめに
  この7月5日、大阪高等裁判所で民事損害賠償請求訴訟の和解が成立し、西原さんの過労死事件について全面勝利解決しました。
  西原さんが被災してから実に11年6ヶ月余り。西原松子さんら遺族にとっては遅すぎた救済ですが、その内容は会社に西原さんらの請求を全面的に認めさせる画期的なものです。この間の経過をご報告し、この事件を通じて感じたことを述べたいと思います。

二 事案の概要
 被災者の西原道保さんは、被災当時46歳。昭和58年9月21日名糖運輸⑭にトラック運転手として入社し、堺市の大阪営業所堺出張所に勤務していました。西原さんの業務は、スーパーへの牛乳の配送で、奈良県の王寺コース等を担当していましたが、被災直前の平成3年2月20日からは、茨木市にあるスーパーダイエーの食品配送業務に変更になりました。
 西原さんは、平成3年2月23日午前7時40分ころ、茨木センターで待機中、運転席で意識不明で横たわっているのを発見され、救急車で千里救命救急センターへ搬送されましたが、同日午前9時18分、「急性心不全」による死亡が確認されました。
 西原さんの労働時間は、午前4時30分から午後5時ないし6時ころまでで、拘束時間は13時間から14時間にも及び、1日4時間もの残業をしていました。走行距離は1日210キロないし230キロに及んでいます。しかも、西原さんは、過去4年間、有給休暇を平成元年7月に2日とっただけで、欠勤はゼロ、毎月2、3日の休日出勤をしていました。
 西原さんの担当する王寺コースは、他のコースと比べ、店舗数が多く、道幅が狭くて坂やカーブも多く、途中霧が発生するところもあり、冬は積雪凍結の危険を伴い、午前7時を過ぎると通勤通学の人が増えるところでした。しかも、スーパーの開店時刻に間に合うよう時間に追われながら配送しなければなりませんでした。西原さんはこの王寺コースを1日に2便担当していました。各店舗の配送量は、日によって異なりますが、1日約480ケース、重量にして約7200キログラムを、トラックに手作業で積込みこまなければなりません。各店舗では、カート車に乗せて運ぶのですが、配送量の多い店舗では120ケースもありました。
 西原さんは、平成3年1月中頃よりめまいや不整脈を訴え、同年2月6日には医師の診察を受け、薬を飲みながら仕事を続けてきました。そして、同年2月20日からは、茨木センターの仕事に変わり、出勤時間は従来に比べて30分遅くなり、走行キロ数や拘束時間も減りましたが、それでも1日3時間30分の時間外労働をしており、従来と全く異なるコースを担当することになって、かえって精神的なストレスは増大しました。
 そして、前述のとおり、同年2月23日、突然死亡してしまったのです。

三 西原事件の経過
  西原事件の経過をまとめると、以下の通りです。
  H3・2・23 急性心不全にて死亡
     5・8  堺労基署に労災申請
  H7・2・1  旧認定基準制定
     9・22  業務外の決定
     11・6  審査請求
  H9・10・31  審査請求棄却…再審査請求
  H10・4・13  行訴と民訴を同時提訴、支援の会結成
  H12・1・26  行訴一審判決(勝訴)…被告労基署長控訴
  H13・2・19  民事一審判決(勝訴。寄与度減殺二割)…被告名糖運輸控訴
     12・12  新認定基準制定
     12・14  労基署長再調査開始
     12・19  業務上と再認定
  H14・1・28  再審査請求取り下げ
      3・6  サービス残業代を給付基礎日額に加算することに合意
      6・5  サービス残業分労基署長再決定
      7・5  民事訴訟で和解成立

四 和解内容とその意義
高裁で成立した和解の内容は、会社は遺族に一定の解決金を支払い、「会社は、亡西原道保の健康に配慮せず、過重な業務に従事させ、その結果同人が死亡したことにつき、被控訴人らに深く謝罪するとともに、今後は関係法令・通達等を遵守し、社員の業務管理・健康管理に全力を尽くし、二度と同様な事態を起こさない努力をすることを約束する」というものです。
遺族に対する謝罪と再発の防止を約束させた点もさることながら、その解決金の支払いについても、①逸失利益の算定にサービス残業分を含めさせたこと、②原判決の2割の寄与度減殺(病院に行かなかったこと、喫煙)を認めさせなかったこと、③弁護士費用と11年以上に及ぶ遅延損害金の全額を支払わせたことなど、西原さんらの請求をほぼ全額認めさせることができました。とりわけ、過失相殺・寄与度減額については、過労自殺の場合とは異なり、未だに3割、6割といった減殺が行われている裁判実務(原審では2割)の中で、和解という形でそれを認めさせなかった意義は大きいと思います。

五 勝利をもたらした要因
 1 全国の過労死裁判での勝利の積み重ね
  この事件では、西原さんが長年に渡って著しく過重な業務に従事してきたことは明らかでした。ただ西原さんが被災する直前、茨木センターの仕事に変わり、休日や拘束時間等一定業務が軽減されたところから、文字通り蓄積疲労が正面から問われることになりました。そして、高裁の段階で、蓄積疲労を正面から認める2つの最高裁判決が出され、それに伴い労災認定基準の見直し、再調査により急遽業務上と認定されました。ですから、この西原事件の勝利は、全国の過労死裁判の個別の勝利の積み重ねの上に立つものであり、またこの最高裁判決を引き出す上でも西原事件の2つの1審勝利判決が力になったものと思います。個別の事件に勝利し、それを積み重ねることによって最高裁を変え、労災認定のありかたそのものを変えていく、そのことを実感させてくれる事件だと思います。

 2 過労死弁護団、支援する会の重要性
  そしてその勝利をもたらしたのは、西原松子さんら遺族の奮闘もさることながら、過労死弁護団と、支援する会の奮闘がありました。
  当初この事件は、私1人で担当し、会社の協力も得られなかったこともあってなかなか進みませんでした。しかし、当初から1人の元同僚が協力してくれ、また、他の過労死弁護団の加入と、交運共闘や運輸一般の活動家の協力によって業務内容の解明が進みました。とりわけ、審査請求の終盤になって、会社を退職した同僚が西原さんの直前の業務について証言してくれ、正直いって、労災認定がとれるのではないかと思っていました。
  しかし、その結果は、棄却でした。この段階で民事訴訟と行政訴訟を同時に提起して闘うことになり、今は亡き本多淳亮先生を会長に「西原さんの労災認定を勝ち取る会」を結成していただきました。そして、裁判傍聴や署名等はもちろん、労基署交渉、会社への要請等大いに取り組んでいただきました。毎回の裁判の後には必ず、事件についての学習交流会を行いました。西原松子さんは、「家族の会」にも積極的に参加し、その支えも抜きには語れません。この大きな支援があったからこそ、労災認定基準の壁を乗り越え、歴史的な裁判に勝利することが出来たのだと思います。大阪では当たり前かもしれませんが、過労死事件は複数の弁護士で担当すること、「支援する会」を結成して闘うことが大切だと思います。

六 この事件での教訓
  そうは言っても、11年以上という歳月は長すぎました。西原さんが被災した当時小学5年生だった長女の真弓さんも成人となり、この間の西原松子さんの苦労は相当なものがあります。
  なぜ、こんなに時間がかかったのか。当初1人で担当していた私に最大の責任がありますが、ここで1つ指摘しておきたいのは、この種の過労死事件(特に過労死弁護団の関わる事件)においては、労働基準監督署長の権限はほとんどないということです。業務上外の認定においても、控訴するかどうかにおいても、労働厚生省の方で基本的に決定され、現場の労働基準監督署長にはほとんど権限がないということです。行政機関である以上一定やむをえないことかもしれませんが、それが結局のところ大きく影響し救済を遅らせることになりました。それともう1つ、新しい判例をつくるとき、裁判所が大きく動揺するということです。前述の最高裁判例は脳に関するものであり、この西原事件は、その最高裁判決を受けて初めての心臓に関する高裁判断となる予定でした。しかし、裁判所は動揺したのか、急に医学鑑定をしたいと言いだし、結局1年間裁判が延びました。裁判所を説得・包囲して、決断させることの重要性を痛感しました。

七 おわりに
  最後に、西原松子さん本当にご苦労さまでした。来年は西原さんの13回忌だとか。こころから西原さんのご冥福をお祈りしたいと思います。そして、この歴史的な裁判に弁護士としてかかわれたことを本当に誇りに思います。皆様のご支援に感謝し、ご報告としたいと思います。
  (弁護団 岩城 穣、豊島達哉、坂本 団、山﨑国満)
(民主法律251号・2002年8月)

2002/08/01