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遠い釧路の地で過労死~M事件 弁護士 小橋るり

弁護士 小橋 るり

一 過労死一一〇番の電話
  弁護士になって程なく、過労死一一〇番に参加しました。
 私に最初にかかってきた電話は次のようなものでした。
 息子が亡くなって悲しいと繰り返す母親であろう女性、阪神大震災で被災され、ご主人が被災復旧事業の過程で自殺したこと、その原因は役所にあると怒号のような説明を繰り返す妻であろう女性……。
  私が、稼働時間や稼動状況等「過労死」になるのかどうかのポイントを聞きたいと思っても、そのような質問さえ不謹慎だと思われるようなすごさでした。電話を切られるときは、いずれの方も「有難う御座いました、関係のないとりとめのない話をずーッと聞いてくださって……。」と丁重にお礼を言われました。
  Mさんの奥さんの電話はこのような相談の後だったと思います。か細い、おどおどしたような声で奥さんはこう言いました。「主人の死亡した原因をどうしても知りたいんです。くも膜下出血で病院で亡くなったのですが、……。」
  「大阪から釧路の工場に転勤になって、サンマの大漁のせいで去年よりトロ箱生産が倍増して……。」
  「主人はもともと技術畑で、生産工場責任とか営業とか全然、経験がないのに、全く土地感のない釧路で営業とか現地採用の人を使って無理な注文になんとか応じようとしていたのです。」
  私は、東京から引っ越して、平成六年二月から平成九年三月末まで釧路に住んでいたので、この奥さんの電話を聞いていて、「ああぁーー、大阪から釧路に行きはったんですか……。私も平成六年から九年の春までいたんですよ。そうですか、あの冬の寒さは体験しないと口では説明できないですよね。そうですか、ご主人はその釧路で、小さい子どもさんがいるから大阪にMさんが残ったんですね、Mさんが行くまで単身で歯を食いしばって働いておられたんですね。大阪から釧路に行きはったんやったら、あの寒さとあの景色にこう、……。全く大阪と違いますもんね。」と思わず言いました。
  Mさんは、電話の向こうに思いがけず釧路の生活・気候を知る者がいて、釧路の荒涼とした風景が心象風景をして再現されたのか、亡くなったご主人の生活に思い致したのか、緊張の糸がきれたように急に泣き崩れました。
  そして「釧路のことがわかってくれる弁護士さんにお話を聞いてもらえただけで、もういいです。」と言いました。
  私は、もっとお話が聞きたかったので、「そう言わんと事務所のほうに一度きてください。」と言って、連絡先を告げ、その日は電話を切りました。

二 事件の概要
  故Mさんは、昭和二九年生れ、同志社大学卒業後、T社(軟質プラスティック発泡製品等製造業)に平成四年に入社後も技術職に配属されましたが、平成六年秋ころからT社北海道工場(釧路市)の新規建設のため釧路出張が度重なり、平成八年四月に右工場運転開始とともに同工場に転勤になりました。
  故Mさんが転勤当時、釧路工場には工場長Iさんがいましたが、実際にはその人は東海工場の長も兼任していたため、実質的に故Mさんが釧路工場の責任者の仕事をやらざるを得ませんでした。その兼任者の工場長は平成九年一月に東海工場長転勤になったため、名実ともにこのときから故光野正人さんが一人で釧路工場を切り盛りしていました。
  平成八年四月の赴任早々時、なれない工場長として、故Mさんは、従業員への技術指導、トロ箱の生産計画の立案、日々の従業員への生産指示、注文取り等の営業、生産機械の補修・点検等にあたった。営業もしていたので土日も「仕事」をせざるを得ない状態でありました。
  自宅に就寝中でも二四時間操業の工場現場から生産予定や機械の補修についての指示を求める電話が週に二回ほどかかってくる生活でした。新規工場の開設のため、機械運転に習熟した従業員がおらず、故Mさんによりかかっての釧路工場操業でした。
  その上に、東海工場長としてIさんが転勤になってから、Iさんのしていた営業の仕事もしなくてはならなくなり、未経験という事もあいまって精神的負担が加速してきました。
  平成九年八月中旬頃から、サンマの異常大漁に伴って、トロ箱生産が前年比数倍必要になった上、地元のトロ箱生産業者が欠品を出したので、トロ箱受注がいわばT社に集中した形になりました。工場は二四時間操業で、現場従業員はきっちり三交替制をとるのですが、故Mさんは前述もしたように、残業しても残業しても生産が間に合わない……。Mさん自身が工場の生産を手伝いに行くという異常事態まで発生したのです。夜中の二時、三時は当たり前という毎日。それでもトロ箱生産が間に合わないというプレッシャーの中、平成九年九月一六日に、くも膜下出血を発症し、意識が混濁したままMさんは帰らぬ人になりました。
  Mさんは、病院に運ばれたMさんの変わり果てた姿を見て、あまりのショックに当時の事を思い出そうと思ってもしばらく記憶装置にロックがかかっていたようでした。T社の平成九年度トロ箱生産はなんと前年比二・五倍だったそうです。

三 釧路工場の元同僚に聞き取りへ
  私と松丸弁護士、有村弁護士で、工場での故Mさんの残業時間の実態を調査すべく、もと同僚の方にホテルロビーまで出向いてもらい、二時間ばかりお話を伺いました。
  純朴な感じの二人の青年は、「Mさんが現場で頑張ってるから、あんなひどい状況でもみんな歯、食いしばって働いていました。Mさんはお兄さんみたいな感じで、優しくてみんなのことをすごく気遣ってました。」「Mさんは職場の皆から本当に慕われていました。信頼されていました。」「できる限りのことはします。労基官の聞き取りがあるときも、ありのまま言います。とにかくあんな異常な(サンマ)大漁はなかった。」ときっぱりと言ってくれました。
  翌日は釧路労働基準監督署に出向き、三交替制だったので、実際の故Mさんの実労働時間を通しで認識している状業員はいないこと、だから、従業員の個々の申告事実の単純な稼働時間の総和では、故Mさんの労働時間は過小にしか出てこない事等の説明をしました。

四 労災が降りた!
  どのくらいで申請結果がでますか?
  この問いは、過労死事件を受任された経験のある弁護士なら何度となくされる質問だと思います。Mさんの奥さんご自身もその質問を幾度となくされました。
  子どもさん二人を抱えられて、不安な経済状態と精神状態を考えたとき、奥さんの一日一日は本当に長いものだったと思います。
  その日私は、ハンセン国賠訴訟のため、岡山の愛生園というところに行っており、五二期の先生方と園の中を探索していました。
  マイクロバスでの移動で、原告の一人の方から説明を受けながらの移動中、有村先生から携帯電話が入りました。「るりさん、出たよ、Mさんの労災!!!……。」との絶叫。私も思わず、「うわああぁーー、ほんまにぃーー、やったぁー」と絶叫。
  すぐにMさんの奥さんに電話。「Mさん、出たで、労災。認められてんで、ご主人が働きすぎでなくなったのは、労働災害やて……。」
  Mさんは絶句して、声にならない声で、有難う御座いますとただただ繰り返すだけでした。
  故Mさんが亡くなられて、ほぼ三年後の平成一二年七月上旬のことでした。

五 そして、現在~Mさんの奥さんが最も知りたい事
  Mさんの奥さんは、今度T社に対して故Mさんに対する健康配慮義務違反による損害賠償請求訴訟を起こされる事を決意されました。
  真実が知りたい、誰にも苦労を知ってもらうことなく、静かに逝ってしまったご主人のことをもっと知りたいということなのでしょう。
  Mさん夫妻はとてもお互いを思いやっておられ、それは出張先から奥さんにだされた故Mさんの手紙からもあふれていました。奥さんは、私たち弁護士の前で「こんな主人だったんです、どうか申し訳ありませんが、主人の人となりを知って欲しいので、しばらく聞いてください。」といって、手紙を朗読されました。きっと、奥さんはまだ自分のしていることがとんでもない事をしているのではないかとの思いが払拭できず、ご主人の人となりを私たちに理解してもらうことによって「こだわっている自分」を理解して欲しいということなのでしょう。
  大丈夫ですMさん、貴女は異常でもなんでもありません。突然逝ってしまわれたご主人のことを知りたい、最愛のご主人を追い込んだ原因を知りたいだけなのです。当然のことをしていると私は思っておりますよ。

2000/01/01