過労死問題について知る

HOME > 過労死問題について知る > 勝利事例・取り組み等の紹介 > 夫は取り戻せないが仕事に情熱を燃やした夫を誇りに夫の分も私は生きる 原告 S・T...

夫は取り戻せないが仕事に情熱を燃やした夫を誇りに夫の分も私は生きる 原告 S・T子(民主法律時報292号・1996年5月)

 昨年の2月1日の規制緩和は、過去の営業職の労働証明の難しさへの門戸を大きく開くことになりました。申請するまで、ダメなら裁判覚悟の思いでしたが、申請後は毎週1人で労基署に足を運びました。申請1週間目で「今回のケースは労働時間がポイント」という言葉が聞かれ、書類に目を通していただいていることがうかがえました。申請40日目弱で「長時間労働が認められる」「今回提出している資料で十分」という言葉も聞かれ、この日は「夫の働いてきたことが認められる」「夫は病死ではないことが認められる」という思いで帰り道は涙が止まりませんでした。
 1月16日の申請日には、伊丹労基署は「3ケ月で答えを出す」と言っていただきましたが、「海の物とも山の物とも」わからない不安はありました。しかし、労基署の調査が進む中で「年度末には答えが出せないか」という方向に進み出しました。1月16日の提出資料の元になる物がほしいと言われ、1月末にその資料の元になるものを、私なりに整理し「誰に何を聴けばよいか」「このことはこれを見れば分かる」と追跡調査しやすいように資料提出を行いました。
 先生方に的確にまとめていただいた代理人意見書は、1月16日私の申立書と一緒に提出していただき、2月29日私の報告書(妻の意見書)を先生方と提出に行ったとき、労基署課長からは「資料は整理されていた」「読めば分かる」の言葉を聞くことができました。
 夫の労働の中で、接待等の食事の時間を労働に「入れる、入れない」の話し合いを持つということを聞きましたので、報告書ナンバー2を作成し、写真を添えて提出いたしました。
 訴えたことが認められ、労働省サイドの回答を得られたことは、今まで多
くの方々が申請し闘われた成果の現れであって、しかし過去に多くの「外」の回答を貰った方々の救済はどうなるのだろうという疑問が残ります。

 夫の仕事を知りたいという思いから始まった労災申請でした。人間の労働を超えた労働により命を奪われた夫を取り戻すことのできないもどかしさと、あの労働がなければ夫は「今でも生きていた」という思いは残りますが、夫の仕事への情熱を認め「夫らしく生きた」ことを誇りに「生きたくても生きられなかった」夫の人生を、私は生きて私を必要として下さる方の為に人生を歩みたいと思っています。

 過労死がなくなることを願って、大阪過労死問題連綿会のご活躍を願ってやみません。最後になってしまいましたが、「先生方ありがとうございました」
(民主法律時報292号・1996年5月)

1996/05/01