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S特販課長過労死事件報告 弁護士 篠原俊一(民主法律時報292号・1996年5月)

弁護士 篠原俊一

1 事案の概要
(1) 被災者S氏は、農機具販売会社の特販課長として、京都府北部及び兵庫県内の販売店(合計10社、13店舗)に農機具を卸す業務を担っていた。S氏は、より多くの農機具を販売するため、販売計画の立案や部下の管理業務を行うとともに、自らも販売店や個々の農家を回って激しい営業活動を行い、高い業績を上げていた。
 1994年7月24日、S氏は出張先で意識を失い、救急車で病院に運び込まれたが、間もなく自発呼吸停止。そのまま同月27日午後5時45分、入院先で死亡した。死因はクモ膜下出血、享年46歳であった。
(2) 1996年1月16日、妻のT子さんが、「夫の死は働きすぎによるもの」として伊丹労働基準監督署に労災申請。同監督署は、1996年4月5日に、S氏は業務上死亡したものとして過労死を認定した。

2 認定の根拠
 監督署が、業務上を認定した理由は以下の通りである。
(1) 業務の量的な過重性
 被災者の発症前の労働時間は、1週間前で就業規則上の労働時間(週38時間45分)の約2.1倍、発症前15日間で約2.4倍、発症前1か月で約2倍の長時間労働(月300時間以上)であり、特に発症2日前までは14日間連続勤務であった。
(2) 業務の質的な過重性
 被災者の業務は、泊まりや日帰りの出張が主体で、長距離自動車を運転しての移動が多く、管理職としての業務に加え、ノルマ管理のもと自らも積極的な販売業務を行っていた。
(3) その他
 業務の過重性に影響する作業環境として、外回りの営業活動という業務環境に加えて、7月の暑い盛りでの業務であった。

3 本件認定の意義
(1) 営業職の課長である被災者の労働時間に、①出張先での移動や待機時間、②顧客との食事時間、③直行直帰の日帰りの出張については自宅から自宅までの時間、④宿泊出張については自宅からホテルに着くまで時間、あるいはホテルからホテルまでの時間、⑤事業所を起点ないし終点とする出張については、出張先から事業所に着くまでの時間を含めた。
 労働時間ではなく、ノルマ管理されている営業職に従事する者の労働時間の捉え方として、右のような実態に則した判断がなされたことは評価に値するものである。
(2) 被災者においては、発症前日が休日であったが、このことはそれ以前の14日連続の長時間勤務や、もともとの休日が少なかったことから、過労状態を回複することにはならなかったと判断した。
  このことは、発症前が休日であったからといって労災をあきらめる必要はないことを明らかにするものである。
(3) 出張や外回りの多い営業職の課長の業務の質的過重性を認めた。
(4) 決定が、申請後わずか2か月半のスピードで出され、従来手続の遅延が指摘されていた認定業務の事務改善が顕著である。

4 感想
 本件でこのようなスピード認定がなされたのは、申請までのT子さんの精力的な情報収集活動があったからである。もとより、被災者の遺族にはそれぞれ個別の事情があり、情報収集活動をしたくても出来ないということは珍しくはないので、申請者はT子さんのようにあるべきだというつもりはない。ただ、本件において、T子さんの「夫は病死したのではない」 「あんなにも夫を疲れさせていた仕事内容を知りたい」という熱い思いと、この思いを実現するための行動が、周りの人を動かして被災者の労働時間、業務内答を知るための資料を集める原動力になったのは紛れもない事実である。労基署をして、「請求人より、“これを見ればこれがわかる”“この人にこれを聞けばわかる”という具合に調査方法を知らせてもらい、これに基づいて追跡調査が出来た。」と言わしめたことが全てを物語っていると思う。
(民主法律時報292号・1996年5月)

   夫は取り戻せないが、仕事に情熱を燃やした夫を誇りに、夫の分も私は生きる
                                      原告  S・T子
 昨年の2月1日の規制緩和は、過去の営業職の労働証明の難しさへの門戸を大きく開くことになりました。申請するまで、ダメなら裁判覚悟の思いでしたが、申請後は毎週1人で労基署に足を運びました。申請1週間目で「今回のケースは労働時間がポイント」という言葉が聞かれ、書類に目を通していただいていることがうかがえました。申請40日目弱で「長時間労働が認められる」「今回提出している資料で十分」という言葉も聞かれ、この日は「夫の働いてきたことが認められる」「夫は病死ではないことが認められる」という思いで帰り道は涙が止まりませんでした。
 1月16日の申請日には、伊丹労基署は「3ケ月で答えを出す」と言っていただきましたが、「海の物とも山の物とも」わからない不安はありました。しかし、労基署の調査が進む中で「年度末には答えが出せないか」という方向に進み出しました。1月16日の提出資料の元になる物がほしいと言われ、1月末にその資料の元になるものを、私なりに整理し「誰に何を聴けばよいか」「このことはこれを見れば分かる」と追跡調査しやすいように資料提出を行いました。
 先生方に的確にまとめていただいた代理人意見書は、1月16日私の申立書と一緒に提出していただき、2月29日私の報告書(妻の意見書)を先生方と提出に行ったとき、労基署課長からは「資料は整理されていた」「読めば分かる」の言葉を聞くことができました。
 夫の労働の中で、接待等の食事の時間を労働に「入れる、入れない」の話し合いを持つということを聞きましたので、報告書ナンバー2を作成し、写真を添えて提出いたしました。
 訴えたことが認められ、労働省サイドの回答を得られたことは、今まで多
くの方々が申請し闘われた成果の現れであって、しかし過去に多くの「外」の回答を貰った方々の救済はどうなるのだろうという疑問が残ります。

 夫の仕事を知りたいという思いから始まった労災申請でした。人間の労働を超えた労働により命を奪われた夫を取り戻すことのできないもどかしさと、あの労働がなければ夫は「今でも生きていた」という思いは残りますが、夫の仕事への情熱を認め「夫らしく生きた」ことを誇りに「生きたくても生きられなかった」夫の人生を、私は生きて私を必要として下さる方の為に人生を歩みたいと思っています。

 過労死がなくなることを願って、大阪過労死問題連綿会のご活躍を願ってやみません。最後になってしまいましたが、「先生方ありがとうございました」
(民主法律時報292号・1996年5月)

1996/05/01