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亀井エース証券外務員過労死事件に業務上認定 弁護士 脇山 拓(民主法律226号・1996年2月)

弁護士 脇山 拓

1 事件の概要
 (詳細な労働実態については、労働法律旬報95年12月下旬号に報告が掲載されているので、そちらをご覧下さい。)
 故亀井修二さんは、1987年3月に大学を卒業後、エース証券株式会社に入社し、証券外務員として営業活動に従事していました。
 会社の所定労働時間は、午前8時40分より午後5時まででしたが、修二さんは連日午前6時50分には出社して、午後10時ころまで営業活動に従事し、休日である土日も出社して業務をすることがありました。こうした熱心な営業努力の結果、同期入社の営業マンとの比較で3倍以上の営業成績をあけ、預かり資産番付では「横綱」となっていました。こうした修二さんの仕事振りは会社が新人営業マン用の研修資料で 「亀井君の一日」として紹介するほどでした。
 こうした過酷な業務は徐々に修二さんの健康を蝕んでいき、疲労と体の不調を訴えながら出かけていった社員旅行先の宿舎で急性心不全のため亡くなりました。1990年10月、26歳での早すぎる死でした。
 後に残されたのは、妻のY子さんと長女。そしてY子さんのおなかの中には修二さんが誕生を心待ちにしていた長男がいました。

2 労災申請
 Y子さんは、修二さんの死は仕事か原因であると考えて、大阪証券労働組合、大阪過労死問題連絡会に相談し、1992年に大阪中央労働基準監督署に労災認定を求めて、労災給付金請求を行いました。

3 業務上決定とその評価
 請求から3年後の95年9月29日、大阪中央労働基準監督署長は、修二さんの死を業務上のものと認める決定を行ないました。
 今回の決定については、次のような特徴点を指摘できると思います。
① 労働時間認定方法
  タイムカードや残業届のような労働時間管理か行われていない営業職の労働時間を、妻や同僚等の供述から積極的に認定しました。
 その背景として、圧倒的な営業成績を上げていたという事情をも考慮しての、この積極的な労働時間の認定手法は、(働く者の立場からすれば当然の結論とは言え)大きく評価されて良いでしょう。
② 営業業務の過重性の評価
  証券外務員の営業活動による精神的負荷について、修二さんの亡くなった時期か、バブル崩壊の時期であるため大きな負荷かかかっていたことを正面から認め、認定の要素として加えています。
③ 新基準の影響
  認定理由の説明の際に、署長は否定しましたが、過重性評価の期間を発症直前の1週間以前まで含めてた考えたことや、上記2点の積極的な認定に前向きな姿勢などはやはり影響があったと考えざるを得ません。
  早い段階で祐子さんから大阪証券労働組合の組合員に相談か持ちかけられ、修二さん自身が人望が厚かったということもあって、同じ会社の営業マンなどの多数の人の協力か得られたことは本当に大きかった。また、弁護団や組合による交渉で会社から一定の資料が入手できたことは、労働実態を明らかにする上で大きな力となりました。更に、弁護団による交渉以外にも、支援してくれる組合員による労基署交渉の場で、証券会社の扱っている商品の仕組みから証券営業マンの労働実態まで詳しく説明したため、労基署の担当者に理解を深めてもらう ことか出来たと思います。

4 認定の意義
 今回の業務上認定は、全国各地でホワイトカラー労働者の労災認定に取り組んでいる弁護士、当事者、労働組合を励まし、明るい展望を切り開くことができたと思います。
 最後に、弁護団は、松丸正、池田直樹、村田浩治と私の4名が担当しました。
(民主法律226号・1996年2月)

1996/02/01