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営業所長Tさん過労死事件 弁護士 横山精一(民主法律226号・1996年2月)

弁護士 横山精一

一 大阪労働基準局に於て、労災認定がなされる。
 1995年12月11日、大阪労働者災害補償保険審査官は、大阪西労働基準監督署長のなしたTさんの死亡が業務外の死であるとの判断を取り消し、同人の死が業務上のものであると認定した。
  Tさんか亡くなられてから、5年半か経過した後の勝利である。

二、本件事件の概要
1、Tさんは1990年5月2日、出張先の茨城県東茨城郡でなくなられた。死亡時46才であった。5月2日と言えば、ゴールデンウィークの丁度まんなかにあたり、世間では、1週間・2週間の大型休暇がとられる時期である。Tさんは、このようなゴールデンウィークの時期に2度の出張を含み、週100時間を超える仕事をし、ついに帰らぬ人となった。

2、Tさんは、67年3月、H商事(その後㈱Hと改称)に入社し、81年迄北海道の営業所で仕事をしていた。当時のTさんは午後7時には帰宅し、家族4人(子どもさんは娘さんと息子さんのお2人)で夕食をとり、早朝ゴルフで汗を流し、冬はスキー、夏は山や海へ家族で出かけるなど健康的でごく普通の生活を送っていた。

3、ところが、81年、大阪営業所に転勤してからはTさんの生活は大きく変わり、帰宅時間も遅くなっていった。特に89年10月、大阪事業所住設営業所の所長となってからはすさまじいばかりの仕事をこなしてきた。
 右住設営業所はユニットバスの販売を取り扱う営業所であり、大阪・奈良・和歌山をエリアとし、常時150以上の得意先をもちこれをTさんを含み9名のメンバーでこなしてきた。Tさんの部下のうち4名は新人てあり、Tさんはこの部下の指導援助等を含めぼう大な業務をこなさなければならなかった。
 Tさんの仕事は、①年2回の決算期に於る年度計画の作成、②毎月の月間目標の作成及びその実施、③自分自身の担当得意先の処理(Tさんは所長として処理の難しい得意先を担当していた)、④目標達成のための部下の指導援助、⑤東京・茨城への出張、⑥取引先とのトラブル処理、⑦得意先との親睦団体運営の担当等々、到底1人ではまかないきれないものであった。その為、Tさんは、朝7時には必ず出勤し、デスクワークをし、日中は、得意先へ出かけて交渉、注文取り、クレーム処理、集金等をこなし、夕方には会社に戻り部下とのミーティング、決算資料・月間目標作成資料の作成にあて、退社時間は12時を過ぎ、帰宅後も机にむかい数時間仕事をしていた。
 休日は、週休2日をたてまえとしていたか、1箇月に2日休むのが精々であり、奥さんの諸によれば、この僅かな休日ですら、Tさんは朝から晩まで机にむかい仕事をしていたという。
 まさに、一日数時間の睡眠時間以外の全ての時間を仕事にあてていたといっても過言ではない。公的に確認かとれている労働時間だけでも死亡前6箇月1800時間近くにのほり、前述の風呂敷残業を含むと2000時間を超えていた。これは所定労働時間の約2倍にあたる。
 このような労働の中でTさんの健康はむしばまれ、奥さんの話によると死の2箇月前ころからはTさんの体がだんだん小さくなるように思われたという。このころから奥さんは、Tさんの帰宅時間を毎日カレンダーに書きとめ、Tさんに無理をしないように説得もした。しかし、真面目で責任感の強いTさんは無理に無理をかさねとうとう帰らぬ人となった。

4、Tさんの死後奥さんは、Tさんの死が業務に起因するとして大阪西労働基準監督署に労災の請求をし、会社も奥さんに全面的に協力した。会社もTさんの死が業務上の死であることを認め、Tさんの死亡の直後に住設営業所を2つに分割し、所長への負担を軽減する対策を講じている。
 しかるに、西労基署はまともな調査をすることなく92年2月3日、業務外の認定をし、現在奥さんは審査請求を行った。

三、1992年2月3日付大阪西労働基準監督署長の処分内容及びその理由と不当性
1、前述のとおり、大阪西労基署はTさんの死について業務外の認定をしたが、その理由とするところは、弁護団の聴取したところによると以下のとおりであった。
①発症直前から前日までの業務についてみると、(1) 前日の全行程を通じてTさんの従事された業務内容は、デスクワークや営業活動とは多少違うが、特にびっくりするような特異な労働ではなく、(2) 所定労働時間を超えていることは確かであるが、何らかの心疾患を発症せしめるほどの過重な労働・労働時間の超過というふうには判断できないので、前日について認定基準にいう過重性は認められない。
② 発症前一週間については、労働時間も相当に長く、戸中有で出張・招待旅行の随行もあったが、仕事の内容は従来から経験深い仕事であるから、心疾患の発症原因になるほど過重であったとは判断しなかった。③ 参考までに発症6ケ月間の労働時間を検討したが、必ずしも明確に非常に過重になるほど増えていないと判断した。
④ その他、Tさんの基礎疾病等も総合的に考えて、その基礎疾病をその自然経過を超えて急激に著しく増悪せしめるに足る業務に関連する異常な出来事に遭遇したことや、日常業務に比較して特に過重な業務に就労したことによる著しい身体的・精神的負荷の事実があったとは認められない。
 従って、既存の心疾患が偶発的に発症したものと判断した。

2、 原処分の不当性
(1) 事実調査の不十分さ
 西労基署は、会社からの報告書は受領してはいるが、Tさんの労働実態について独自の調査をほとんど行っていない。特にTさんの奥さんからは、事実調査を詳しく行わず、一度簡単な面談をしたのみであった。

(2) 「先に結論ありき」の恣意的判断
 又、会社の提出した資料からみても、Tさんの労働時間は、所定労働時間の2・5倍ないし3倍となり、且つ、死亡前1週間には2回も水戸工場へ出張しているなど過重な負担がかかり、これがTさんの死亡に大きく影響したことは明らかだった。しかるに、西労基署は、「先に結論ありき」の恣意的判断を行った。
これは、同署か収集した労災医員の意見に大きく影響されたものと考えられるが、この点については後述する。

四、1995年12月11日付審査請求決定
1、前述のとおり、審査請求に於て、業務外の認定をした西労基署長の処分は取り消され、業務上の認定がなされた。

2、この2つの判断か別れたのは、それぞれの段階でなされた医師の鑑定意見が正反対になったことによる。
(1) 白井医師の意見
 すなわち、西監督署長が依頼した労災医員白井嘉門氏の意見書によれば要旨「T氏の労働は拘束時間か多く、相当の激務であったことは了解し得るが、その業務内容はとくに異質なものではなく、多少は神経を使うとしても慣熟した業務であり、業務事態の中に特に急性心不全の引き金的なものは認められない。然し、Tさんは昭和56年より高血圧の治療をうけ、時に労作性狭心症発作のありたることは、大阪大学医学部付属病院星田四郎医師(Tさんの主治医──横山)の意見書によって明白である。‥‥その心疾患が特に業務に起因することなく出張先で心不全に偶発したものと考えるのか安当であろう。」とある(但、右内容は、審査請求決定書により初めて明らかにされたものである)。
 すなわち、Tさんの仕事は激務であったが、「慣熟すなわちTさんはこの仕事に慣れていたのだから、心不全の引き金とは認められず、既往症の労作性狭心症等が仕事とは無関係に心不全となってあらわれたというのである。

(2) 澤田医師の意見
 これに対して、審査請求段階で収集された大阪労働基準局地方労災医員澤田徹氏の鑑定書の概要は以下のとおりである。
 ① T氏の死因
 前述の星田四郎医師の意見書等をもとにして、T氏の死因を「急性心筋梗塞」と判断した。
 ② 心筋梗塞の発症要因
 「心筋を濯流する冠動脈系に梗塞を生じたものが心筋梗塞」であり、T氏の場合は 「すでに冠動脈系の循環障害があったものとすべき」であり、「冠動脈に閉塞性病変がある場合、運動負荷やストレスなどの負荷が加わると心筋代謝が増大し、‥‥心筋虚血が誘発されやすい。負荷が過度にかかると心筋梗塞を発生することもよく知られた事実である。」Tさんの場合「過重負荷により心筋梗塞を起こしやすい状態にあったのであり、最終的に心筋梗塞を起こしたのはそれに先立ち何らかの負荷が心臓に加わったことが否定できない。」
 ③ 当該傷病に対する業務起因性
 T氏の営業署長としての業務に加え、水戸工場開設、部下の人事異動等によりかなりの業務量が増えていたことが推察され、「残業量が増えるとともに精神的緊張が強くなっていたことは否定できない。このような状況は持続的に心筋に対する負荷を増大させる要因になりうる。」
 「特に発症1週間前には水戸への出張が2回になっており、身体の的負荷が増大し、疲労か蓄積していたものと推定される。
 発症前日には早朝に起床し、得意先の接客と案内をしながら大阪から水戸へ異動したのち、工場見学案内、懇親会、二次会と続き、その後午後12時までの業務の打合会を行ったことは身体的にもかなりの負荷であり、とくに脆弱部のある冠動脈系に対する負荷が大きく、その結果心筋虚血を起こしたとして医学的に矛盾はない。他に急激な心筋に対する負荷行為がなかったことを考慮すると本件被災者に心筋梗塞を生じたとすれば、その業務起因性を否定する根拠はないとすべきであろう。」
 以上より「本件被災者の死亡原因としては心筋梗塞の蓋然性が高いことから、本件被災者の傷病の業務起因性は否定できないものと判断する。」

(3) 2人の医師の意見書を比較して
 Tさんは、主張先の旅館で死亡しているのを発見され、死体検案書にも死亡原因は急性心不全とあるだけで具体的な指印は特定されていなかった。又、Tさんは死亡前、阪大病院に通院しており、労作性狭心症であることか疑われ、その病名を明らかにするため心臓カテーテル検査をするよう主治医である星田医師に勧められていたか、多忙のためこれをはたさぬままにいた。このような状況下で心身に過重負荷がかかった場合、人間の身体はどのようになるのか。これか2人の医師により検討された。労基署段階の白井医師は、Tさんの死因の特定に関する検討をせず、仕事が激務であっても、「慣熟」した業務なので心不全の引き金にはならないなどとした。このような立論によれば、激務は続ければ続けるほど「慣熟」すなわち慣れるので過労死など起こる筈がないということにもなりかねない。きわめて乱暴な意見である。しかも問題は、このような意見書が直接労災を請求する側に於て検討できないということである。白井医師の意見書の内容は、たまたま、審査請求決定書にその一部が記載されたため我々の知るところとなった。しかし、我々が原処分後、西労基署の担当者より事情聴取した時には、意見書の内容はおろか、医師の名前も明確にされなかった。そのため、審査請求に於て、原処分のどの点を批判すべきなのかを検討するのに困難を伴った。
 他方、澤田意見書は、①主治医の意見書より、死因を心筋梗塞と特定し、②心筋梗塞の発症機序を明らかにした上で⑨Tさんの業務内容、死亡前1週間、直前の労働実態をふまえ、業務起因性の判断をした。今後同種事案を検討する際の参考になると考え、長文の引用を行った。

五 審査請求での活動
1 Tさんの遺族は、西労基署の判断に納得がいかず、過労死弁護団に相談し、弁護団が組まれた。又、T氏の葬儀をも担当した僧侶であるS氏を会長として、支援団休も結成された。

2 弁護団の活動としては、①Tさんの死因や、狭心症から心筋梗塞に至る機序を明らかにすること②Tさんの労働実態を明らかにするという2つの目標をもった。

3 ①の医学的側面については、主治医であるH氏に何回となく接触の機会を求めたか、結局文書によるやりとりを何度か行ったのみで十分な協力は得られなかった。そこで耳原総合病院循環器内科の松本久、大野穣一両医師の協力を得、意見書の作成をいただいた。この意見書か前述の澤田医師の鑑定書に大きな影響を与えたものと考えられる。

4 ②のTさんの労働実態を明らかにする点では、会社の協力が得られたことが大きかった。というより、会社は当初よりTさんの死は業務上のものであるとの意見をもち、労災申請も会社のイニシアチブによりなされてきた。審査請求の段階に於ても、Tさんの最後の出張に動向したH氏や、当時のTさんの部下であるF氏の協力を得て、同人らの陳述書を提出し、Tさんの労働実態を明らかにすることか出来た。又、Tさんの妻のA子さんには、死亡前二箇月のTさんの健康状態について、A子さんがカレンダーに書きこんだ記載をもとに陳述書を作成してもらった。このカレンダーの記載は、90年3月ころ、Tさんの体が段々と小さくなるように思えたため、心配になって奥さんが書きとめていたものであった。

5 支援する会は、S氏を会長として、92年9月19日結成し、ニュースの発行、署名活動等の活動をし、勝利決定を得るのに大きな影響をもった。

6 以上のような活動の結果、勝利の決定を得ることかできた。
  弁護団構成は、横山精一、岩城穣、船岡浩の三名である。

【T・A子さんからのお便り】
 夫の七回忌を前に業務上認定の知らせを聞き、長い間惜しみないご支援を下さいました多くの方々に感謝の思いでいっぱいです。厚くお礼申し上けます。

 顧みますと平成2年、会社の全面的協力を得ましての労災申請、平成4年、確かに仕事はかなり大変のようであったか、過重労働とは認められない、業務外という大阪西労基署の処分に過労で疲れ果て、無念にも別れた夫を思うと、到底納得できない内容と怒りすら覚えて東京過労死110番へ電話をしました。西宮市での夫の死でありましたか、社宅の期限もあり、平成3年より神奈川県に住んでおります。その後、会社の所在地が大阪のために、大阪の過労死弁護団の先生方の経験豊かなご指導をいただくことになりました。夫や私の友人や知人による支援の会も発足し、共に署名集めを中心に運動を進めてきました。署名集めをする中で過労死の道家族だけでなく、働く者の権利、人間らしく生きることを考え、労働行政という大きく厚い壁に挑んでいる多くの人達がいることを知りました。また、遺家族の皆さんと国会議員や労働省関係の人と面会し、現状を訴えてきました。
 仕事を持ち、子育てをしなからの運動は厳しく、その現実を知らず、怒りの思いで申請をしたことに対して、悔やむことか少なからずありました。しかし、それぞれの困難な条件の中で闘っている遺家族の皆さんの姿に勧まされ、夫の同僚や部下の方の陳述書の中の夫や父親の仕事上の苦悩を知り母子で胸を熱くした思い、また、親身になってこ支援下さった方々に励まされ、この日を迎えることかできました。
 多くの人と出会ったこと、家庭の中では決して知り得ぬ多くを見、知ったことはこれからの生きる糧となると思います。
 業務上認定となりましたが決して戻らない夫。過労死をはじめ労働災害のない人間らしい生活ができる社会をと願わずにはいられません。闘い続ける道家族の方々のために微力を尽くしていきたいと思います。
 ご支援ありがとうございました。

(民主法律226号・1996年2月)

1996/02/01