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「高温多湿下の重筋労働」で過労死認定(中川労災事件)かちとる 弁護士 阪田健夫(民主法律時報266号・1993年7月)

弁護士 阪田 健夫

 中川忠さんは、豊中市内の建設中のマンション工事現場で、ブロックを抱きかかえるようにして、汗まみれの作業服姿のまま、だれに看取られることもなくたったひとりで亡くなっていました。昭和63年8月25日夕刻のことでした。死因は「急性心不全」と推定されました。

 中川さんは、ブロック施工を業務とする小さな会社の主任で、ブロック職人を監督することが仕事でした。会社の従業員の中には、職人はおらず、会社は請負った仕事を出来高払いで多くの職人に下請けに出すという形を取っていました。そうしたシステムの中で、中川さんの役割は、同時にいくつかの現場を任され、ここに職人と材料を手配して、施工を促進することにありました。

 死亡当口の午後、中川さんは現場で約300個ものブロックを道具も使わずに運んでおり、発見されたときの状況からも、遺族には、この苛酷な運搬作業のために突然亡くなったものと思われました。もともと、前述したように、ブロックを運ぶことは中川さんの本来の仕事ではありませんでしたが、出来高払いである職人たちが少しでもたくさんのブロックを積めるようにとの配慮から、現場のブロック置き場から各施工場所(マンションであれば各部屋)まで運んであげていたのでした。

 そこで、夫人のH子さんは、会社の協力を得て、淀川労働基準監叔目署へ労災申請を行いましたが、平成2年5月25日付で却下されてしまいました。

  H子さんは納得がいかず、この直後の6月5日、新聞で「過労死110番」があることを知って、相談したところ、池田直樹弁護士が応対し、審査請求を行うことになりました。

 淀川労働基準監督署に問いただしてみると、「当日を含めて直前の業務が従前の業務と特別変わらない」ということが却下の主な理由であることがわかりました。要するに、“中川さんは、従前からブロックを手作業で運んでいたのだから、過重とは認められない」というのです。これを聞いた池田弁護士は、事務所へ戻って来てからも怒りのために興奮していました。「ブロック6個60キロ分持って行って、あの担当者の机の上に置いて来ようか。どんだけ重いか、自分で運んでみたらいい”と言って、関係者からの事情聴取さえ充分にしない杜撰な書面審査のあり方に怒っていたのでした。

 池田弁護士に誘われた山本勝敏・阪田健夫の2名で弁護団を構成し、審査請求手続を進めることになりました。これに後半は脇山拓弁護上が加わりました。

 弁護団は、本件の争点は、「被災当日、30度を超える業現場で、体重45キロ、身長156センチの小柄な被災者が、わずか2時間あまりの間に、1個約10ないし12キログラムのブロックを、たった1人で292個手作業で運んだことが、特に過重な肉体労働にあたるかどうか」にはば尽きると主張しました。この他、付随的に、死亡した8月に被災者が休みを1日も取っていなかったにもかかわらず、一緒に仕事をした職人等から事情を聞かないまま、会社の書類上の記載だけで「3日休んだ」と認定した点についても見直しを求めました。

 はたして中川さんは日常的にこんなに多くのブロックを手作並禾で運んでいたのかどうかを調べるために会社へ聞き取りに行くと、上司は、「中川はしないでいいことをして会社がしてほしいことをしてくれないので仕事が停滞して困っていた。」と私たちが来たことが迷惑そうでしたが、幸い社長が協力的な人で、7月から死亡当日までのブロックの納人数や職人の施工数がわかる資料を提供してくれました。これによってわかったことは、現場によっては、道路沿いにあるためブロックをトラックから降ろすだけでよく運ぶ必要がないところがあったり、2人組でリフトで運んでいたところがあったりして、必ずしも、すべての現場で中川さんが手作業でブロックを運んだのではないことでした。また、すべての現場の中で、死亡当日の現場へ納入されたブロックの数が断然多いこともわかりました。

 職人の1人の方は、「中川主任には生前よくしてもらいました」と言って、いろいろと協力してくれました。「中川さんはこうして運んでいました」と言って実際にブロックを6個(60キログラム分)背中に担いで歩いて見せてもくれましたが、中川さんに比べてかなり背の高いこの人も「これは100メートル全力疾走よりもしんどい」と言うぐらい、それは苛酷なものでした。

 このようにして、会社や職人の協力を得、また、遺族の記憶も引き出しながら、事実関係の立鉦作業は着々と進みましたが、難問はブロック運搬作業と死亡との因果関係についての医学的な裏付けでした。私たちは、耳原病院の東先生を通じて滋賀医科人学の予防医学教室に協力をお願いすることにしました。その結果、同教室の峠田和史先生が引き受けて下さり、学生さんにブロックを担がせて行った実験データ等に基づいて、「高温、多湿下の重筋労働」が人体に及ぼす影響等について詳細な意見書を書いていただくことができました。
 こうして、平成5年2月22日、大阪労働者災害補償保険審査官(赤沢忠政氏)は、中川さんの死亡から4年5ケ月後にして、ようやく淀川労働基準監督署長の「業務外」認定処分を取り消しました。

 私自身について言えば、初めて取り組んだ過労死事件で「業務上」認定をかち取ることができてとても幸運でしたが、平成4年6月には池田弁護士がアメリカへ、秋には山本弁護上が岡山へ行ってしまい、取り残されて右往左往したり、関係者にご迷惑をおかけしたりしたことも印象に残る事件となりました。

(民主法律時報266号・1993年7月)

1993/07/01