過労死問題について知る

HOME > 過労死問題について知る > 勝利事例・取り組み等の紹介 > 大成功を収めた「過労死劇」上演運動 希求座「突然の明日」富田林公園に1200人 ...

大成功を収めた「過労死劇」上演運動 希求座「突然の明日」富田林公園に1200人 弁護士 岩城 穣(民主法律時報258号・1992年10月)

弁護士 岩城  穣

一、去る8月22日・23日の両日、富田林市立公会堂ホールで、過労死問題を正面から取り上げた劇「突然の明日」が上演された。この劇は、大阪で現在企業責任追及の裁判が闘われている平岡事件を中心に、全国で実際に起こった過労死事件を折り込んで1年近くかかって制作されたものである。
 制作・上演した名古屋の自立劇団「希求座」は、過労死問題をテーマにした劇をどうしてもやりたいということで、それまで所属していた劇団から独立して旗揚げした劇団である。今年3月に名古屋で行われた連続7回の旗揚げ公演の観客は1300名にのぼり、名古屋で一大旋風を巻き起こした。
 この劇を大阪で再上演してもらうことになったきっかけは、名古屋公演を観に行った平岡チエ子さん、関西大学の森岡孝二先生、勤労協の中田進先生、劇団きづがわの林田時夫さんや私など約10人が、その素晴らしさに心をうたれ、その日のうちにお願いしたことにあった。

二、劇のストーリーは、過労死したベアリング工場の班長の妻と子どもたちが、悲しみの中から労災を申請し、会社の妨害と闘いながら不支給決定の取り消しを求める裁判を起こして勝利していく過程を描いたものである。
 倒れたあと妻の顔もわからないのに会社の名を大声で叫んだ夫。そんな夫を恨み悲しむ妻に、倒れる前に夫が注文していた誕生日のプレゼントが届く。家族は、「あの人はなぜ死ぬまで働かなくてはならなかったのか」を問いはじめる……。死ぬまで働かせておきながら労災申請まで妨害する冷酷な「企業社会」のなかで、悲しみ、苦しみながら「人間らしさ」を求めて手をつないでいく家族、恋人、同僚たちが実にていねいに描かれている。

三、私たちが希求座の大阪公演の快諾を得て準備に取りかかったのは4月半ば、大阪府下で唯一空いていた富田林の会場を何とか押さえ、大阪の労組、民主団体、知識人ら44名の方々の呼びかけを得て「劇『突然の明日』大阪公演を観る会」が結成されたのは6月1日であった。約15名の私たち「観る会」の事務局のほとんどは、こういった上演運動には全くの素人であった。
 7月の参議院選挙とお盆休み直後という困難な時期に、大阪市内から遠く離れた富田林の会場に1000人もの人々を動員できるのだろうか……。私たちはそんな不安に苛まれながら、「観る会」として合計4回の「つどい」の開催とニュースの発行、平岡さんを先頭にしたオルグや現地でのビラまき、マスコミへの申し入れなどを無我夢中で行った。また共催団体である「大阪過労死を考える家族の会」も独自に全会員にニュースとともにチケットを発送し、過去5年問に「過労死110番」に相談した人々にも案内を郵送した。

四、このような地道な活動が功を奏し、上演運動は後半に入って急速に広がり、特に地元河南地域での盛り上がりは目を見張るものがあった。6月末には富田林市の教育委員会の後援も得られ、チラシ4万枚、ポスター1000枚、チケット1万1000枚を当日までにほぼ配り切った。マスコミも後半になってようやく注目しだし、毎日、朝日、サンケイ、赤旗などの各紙が好意的に取り上げてくれ、テレビもABC、関西テレビ、MBS、テレビ大阪ニュースなどで紹介してくれた。劇の当日にはNHKの衛星放送までが取材に来た。
 取り組みが広がるなかで、たくさんの感動的な出来事も生まれた。「つどい」にはこのような取り組みに初めて参加するという若い人を中心に、参加者が広がった。家族の会の会員や110番の相談者からは、励ましの手紙や辛い心を打ち明けた手紙とともに、5枚分、10枚分のチケット代金やカンパが次々と届いた。ある先生は自分のたくさんの教え子に手紙を書いて参加を訴え、テレビ大阪のディレクターは駅でのビラまきまで手伝ってくれた。新聞やニュースで報道されるたびに連絡先の私の事務所には何本も冊い合わせがあり、電話で115枚のチケット購入の申し込みをしてきた連合系の労働組合もあった。
 一方希求産は、毎回の「つどい」に名古屋から何名も参加してくれ、また、ニュースや電話で大阪での上演運動の高揚を肌身に感じながら、名古屋公演以上の意気込みで練習を重ねてくれた。

五 そんな盛り上がりのなか、ついに2日間の公演を迎えた。事務局スタッフは、当日のために 〝NO MORE KAROSHI〟 の文字を入れた特注のTシャツを着て観客を迎えた。最大の不安を感じていた観客数は、幕を開けてみると500の客席に対して1日目550人、2日目650人、合計1200人であった。
 公演は名古屋以上に素晴らしいもので、幕が降りたあとも拍手はいつまでも鳴りやまず、会場から出てきた人たちのはとんどは目を真っ赤にしていた。アンケートは2日間で350通以上も寄せられ、カンパは20万円近くにのぼった。

六、この劇を通じて、過労死問題が決して人ごとでなく、自分の問題であり日本の労働状況全体の問題であること、過労死をなくす闘いは、企業の論理から人間性を取り戻す闘いであることをたくさんの人々に知ってもらえたと思う。
 それは、単にに当日参加してくれた1200人の人たちにだけではない。言伝やオルグ活動を通じてその数倍、十数倍の人々に過労死問題について考えてもらうことができ、さらにマスコミを通じておそらく数十万人、数百万人の人々に過労死問題を知ってもらうことができた(8月24日テレビ大阪が放映した特集番組は、同局の月間視聴率第1位、これだけでも50万人以上の視聴者があったことになるそうである)。
 また現に労災認定闘争を闘っている遺族の人たちに観てもらい励ましたい、ということも私たちの上演運動のもう1つの目的であり、その点でも大きな成果を収めたと思う。が、劇の途中で客席から外に飛び出して号泣した遺族、劇を観た翌日から血圧が上がり寝込んでしまった遺族もいた。過労死の遺族にとっては余りに重く辛い劇であったことも事実であり、今さらながらこの間題の深利さを痛感する。

七、なぜこの劇がこれほどの成功を収めたのか。現在「企業社会」がますます完成度を強め、いわゆる「過労死ライン」といわれる年間3000時間以上(週60時間以上)の超長時間労働を行っている人々が実に750万人にものぼっている。労働者の2人に1人が過労死の危険を漠然と感じており、家族は人や父親との対話の時間が少ないなかで、いらだちと不安を強めている。この劇のテーマは、そんな状況のなかで日々を送っている多くの人々の心を引きつけるものがあったのではないだろうか。
 しかし他方で、今回の上演運動は市民運動的な広がりにとどまり、一部を除き労働組合の運動にはならなかったこと、参加者には女性が多く、男性が少なかったことを指摘しないわけにはいかない。この状況自体が、過労死問題をめぐる現在の状況を反映しているといえよう。

八、実はこの劇の上演連動はこれで終わりではない。この12月4日(金)・5日(土)の2日間、同じ劇が府立労働センター大ホール(エルシアター)で大阪の劇団きづがわによって上演されることになっているのである。富田林の公演の成功に引き続いてこのきづがわ公演を大成功させることによって、大阪での過半刀死をなくす闘い、日本の企業社会を変えていく闘いは巨大な前進を勝ち取ることができると思う。富田林の公演を観た人、観なかった人を問わず、皆さんのご参加、ご協力を心からお願いしたい。
(民主法律時報258号・1992年10月)

1992/10/01