大阪過労死問題連絡会とは

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大阪過労死問題連絡会のあゆみ

―――「田尻俊一郎過労死問題意見書集」の出版によせて―――

1998年11月
過労死弁護団全国連絡会議代表幹事
弁護士 松丸 正

1. 会の結成に至るまで

大阪過労死問題連絡会は、当初「大阪急性死等労災認定連絡会」の名の下、17年前に結成された。

当時、過労死の労災認定についての先駆的な取り組みが、大阪では、新聞労連、自交総連、化学一般等の労働組合と、大阪労働者の命と健康を守る実行委員会(現在の大阪職対連)が連携しながら進められていた。

また民主法律協会は、毎年春闘時に開催していた権利討論集会で、労働者の健康、過労死問題を3年連続して分科会で討議し、その運動の方向を見出そうとしていた。

そして何よりも、淀協西淀病院社会医学研究所所長田尻俊一郎医師は、過労死の労災認定に医師の立場で労働現場を見据えて取り組み、既に13件という、当時の認定の門戸の狭さ(請求件数に対し5%未満)を考えあわせるなら驚異的と言っても過言でない成果をあげていた。

これら過労死問題への取り組みのうねりを、一つの独自の運動体に結実させようとする声が、田尻医師(現・連絡会会長)を中心にあがり、会の結成に進んでいった。

2. 会の結成

大阪急性死等労災認定連絡会は、1981年7月17日大阪国労会館で、労働組合、被災者遺・家族、弁護士、医療関係者等55名の参加で結成された。全国に先駆けての過労死についての組織的取り組みは大阪で第一歩を歩みだした。

新たな労働者の問題に取り組もうとする熱気が会場には溢れていたことが思い出される。当時、未だ過労死という言葉はなく「急性死」を会の名とし、またその目的も、専ら労災(公災)「認定」を課題とし、企業責任を意識しつつも、その法的賠償責任を追及する視点は未だなかった。

会の目的は、

  1. (1)過労死の労災認定の取り組み
  2. (2)職場の労働環境の改善
  3. (3)労働者への過労死についての啓蒙活動
  4. (4)労災認定行政の改善のための取り組み

をあげていた。

当時過労死問題は貧困問題の一環として位置づけられ、日本の底辺労働者が、これだけ過酷な労働条件の下に労働を行っているという議論が会のなかではされていた。

しかし、労働組合のなかには私病のなかに労働の影を見いだす進んだ取り組みも始まっていたことは注目されよう。

結成直後の7月20日、現在の過労死110番の先駆けとも言うべき過労死の電話相談に取り組んでいる。

3. 急性死から過労死へ

82年7月、田尻、細川、上畑の著になる「過労死」(中央経済社)が出版された。「急性死」から「過労死」へのキーワードの変更は、この問題の所在を明確にするものであった。田尻はこう述べている。過労死とは「臨床医学的な用語ではない。個々の臓器系統の障害についての病理を問題にするのではなく、その背景にある労働実態に着目し、非人間的なともいうべき現在の労働のもとで、疾病・障害の発生が促進されている点を重視し、被災労働者の救済や予防をどのように進めるかとの立場からの概念である」。

結成1年と「過労死」出版を記念して、集会が82年7月24日開かれたが、会の1年の活動を「医学的、法的、運動面でのそれぞれの立場を総合した認定に取り組むシンクタンクが確立され、被災者救済の受け皿が全国にさきがけて大阪にできた」と総括している。この集会で会の名は「大阪過労死問題連絡会」に変更された。

4. 駆け込み寺としての会

会の活動は月1回の例会を中心に行っていた。結成数年をすぎたころより例会の参加者は少なくなり、常連の弁護士高橋典明松丸正、実行委員会の下仲梶山(旧姓藤原)代子、社医研の柿原だけが顔をつきあわせるということも少なくなかった。

しかし、例会にはマスコミや口コミで会の存在を知った被災者、遺族が相談に訪れ、例会は細々ながらも途絶えることなく続いていた。また84年には「過労死110番」のパンフレットを三千部発行し、完売している。

過労死問題が社会的にも広がらず、この問題は特殊な労働現場における個別の問題にすぎないのではとの疑問をもち、会の継続に弱音を吐く弁護士もいた。

田尻会長はこれに対し笑顔で「時期がくるまで被災者、遺族の駆け込み寺として存在しつづけることが大切なのでは」と励ましてくれたことを覚えている。

5. 全国に先駆けての過労死110番

1987年10月労働省はそれまでの「災害主義」の認定基準を改め「一週間主義」の立場の認定基準を定めた(基発620号)。行政が、限界はあるものの、過労死を認めざるを得なくなったことによる改訂である。

これを契機に会は、88年4月19日「過労死シンポジウム」を開催した。会場の大阪弁護士会の会議室は参加者で一杯になっていたうえに、テレビ各社のカメラ、ライトが並び、興奮状態とも言うべきなかで田尻会長の「いまなぜ過労死か」、池田弁護士の「新基準の評価」などの講演と質疑がされた。

4月23日、大阪で全国に先駆けて「過労死110番」が実施された。これもテレビカメラの法列の下、遺族、家族からの電話相談は鳴りやむことがなかった。

過労死問題が労働現場における一般性、普遍性をもった課題であることが、止まることのない電話の数と被災者の職種、地位の多様さから実証された。

会はこの大きなうねりを全国に波及させようと、東京の弁護士らに働きかけ、これが6月18日の第1回全国過労死110番(全国7ヵ所で実施)につながり、現在の大きな過労死運動の契機となっている。弁護団にはこの前年に池田直樹、この年に岩城穣西晃が参加し、当時修習生だった脇山拓村田浩治もこの110番に加わった。

4月・6月の大阪の110番には45件の相談が寄せられ、6件の予防相談のほかは全て過労死の労災請求の相談であった。その相談者を中心に、平岡(工場班長)川口(トラック運転手)藤井(フェリーターミナル警備員)田井(営業所長)新田(電気工事監督)の各事件弁護団が結成されているが、その全てがその後業務上の決定、判決等を得ている。

この「全国過労死110番」の取り組みが契機となって、88年10月、過労死問題に取り組む全国の弁護士により、過労死弁護団全国連絡会議が結成された。

6. 過労死からKAROSHIへ

88年11月には平岡事件をシカゴトリビューン「JAPANESE LIVE AND DIE FOR THEIR WORK」の一面トップの見出しで報道した。

「過労死」は「KAROSHI」として、当時讃美されていた日本的経営のあり方を問うキーワードとなった。

7. 社会に過労死問題の石を投げる

89年4月、会は「過労死110番」(合同出版)を出版し、この本は内橋克人氏によって朝日新聞書評欄で取り上げられた。6月にはNHKドキュメンタリー ‘89「過労死・妻たちは告発する」(織田ディレクター)が放映され、過労死を労働現場だけでなく、家庭、更には働く人々の生き方をも含むトータルな日本の構造のなかで考える視点をつきつけた。

11月シンポジウム「さよなら働きスギ蜂」を、過労死を考えることを通じて健やかに働ける社会をつくりあげるためにはどうしたらよいのかをテーマに開催した。「あなたなしでも会社はまわる、心の気負いをすてましょう」「24時間戦いません。自由な時間をけじめましょう」など、個人のレベルから家庭、職場、社会への広がりのなかで議論し、その内容はブックレット「さよなら過労死」(かもがわ出版)にまとめられた。

会はその後も、過労死問題をさまざまな視点から社会に訴え続けた。92年11月には亀井事件(証券営業マン)を契機に、ホワイトカラーの過労死の背景にあるサービス残業をとりあげ、「サービス残業110番」を実施するとともに(相談件数31件)、シンポジウム「さよならおかしなサービス残業」を民法協、基礎経済学研究所と共催し、「サービス残業社会」(労働旬報社)が出版されている。

94年11月には、過労死問題を就職を控えた学生たちに訴える「過労死問題を考える関西学生フォーラム」を関大の森岡孝二教授の尽力もあって成功させ、その内容は「激論・企業社会」(かもがわブックレット)にまとめられた。

8. 遺族、家族を励まして

会は家族、遺族を励ます活動にも大きな力を注いできた。

90年12月「大阪過労死を考える家族の会」が、17家族の参加をもって結成されたのに協力し、92年11月には「ノーモア・カローシ・今大阪から・とうちゃんたまにはおいでよ・みんなの手作りコンサート」94年12月「家族とともに過労死を考え交流する文化の夕べ」をいずれも家族の会と共催した。また92年8月12月には平岡事件をテーマにした「希求座」そして「きづがわ」による劇「突然の明日」が上演され、過労死問題を感動をもって多くの人々に訴えるとともに、家族を励ましたことも特筆に値しよう。全国的にみても、家族の会の活動は高い水準にある。ボランティアで事務局を担当している池田憲彦さん、細川育代さんたちには縁の下の力持ちになってもらっており、勤労協の中田進先生も家族の会に思い入れをもって協力頂いている。

9. 労働省を動かす

95年2月に「一週間主義」の認定基準を改訂し、一週間に相当な過重性があったと認められるときはそれ以前の業務も「総合的に判断」するとの基準(基発38号)に改訂された。

この改訂をきっかけとして、大阪では認定件数はそれまで1年に1件程度であったものが、年によっては5件以上にもなっている。

過労死弁護団全国連絡会議の弁護士が中心になって勝ち取った判決による労働省の被災者切捨てとも言うべき狭い基準の批判と、過労死問題に対する社会的な関心の高まりのなかで労働省をようやく動かすことができた。

10.企業賠償責任、団体定期保険、自殺への広がり

過労死問題は労災認定から始まったが、今ではそれを生み出している企業責任の賠償と両輪となっている。この点でも大阪は平岡事件の提訴、そしてほぼ請求金額全額を認めさせ、会社に謝罪させた完全勝利和解をもって全国をリードしてきた。

また過労死の遺族のなげかけた、過労死で死んだ夫の命にかけられた保険金を、なぜ会社が受け取っていいのかとの疑問からはじまった団体定期保険問題でも、その110番を全国に呼びかけるなど、会はいつも先頭を走ってきた。

そして、今、リストラが進むなかで、過労自殺の問題がクローズアップされている。

11.広がる過労死救済・予防のネットワーク

このような取り組みの中で、社医研を通じて、脳神経、心臓、精神各科の専門医とのネットワークも生まれ、いつも笑顔の重田博正さんに弁護士はいつも無理をお願いしている。

93年12月には、大阪労働安全センターが結成され、事務局長の北口修造さんを中心に、各種の取り組みや支援の会の結成など、全面的に協力いただいている。

結成当初から関わっていただいている大阪職対連のほか、大阪労連にも安全衛生部会が作られるなど、過労死の救済と予防のためのネットワークは大きく広がっている。

12.駆け込み寺を原点に

駆け足で会のあゆみを少しばかり自画自賛の思いも込めてみてきたが、この問題の先頭に立っていつも走っていたことだけは自信をもって言える。

走りながら考え、考えたことを広く社会に訴えていく視点が会のエネルギーを支えてきた。

そのなかで過労死問題に「魅せられた」弁護士、医療関係者、労働者、学者、ボランティア、そして遺族、被災者たちの人の輪と、企業社会への対抗文化とも言えるものをつくりあげてきた。

「駆け込み寺」として例会を細々と続けてきたころ、1年に1件あるかないかの認定というころとくらべると隔世の感の思いもある。

今後も「駆け込み寺」を原点としながら、常に企業社会に石を投げ、その波紋を広げる営みを大切にすることが求められよう。

道標-田尻俊一郎過労死意見書集」より、一部加除訂正のうえ転載。文中敬称略